2010年06月01日

いうほ

§ 世界が私を愛してくれるので
私が谷川俊太郎さんの詩に魅せられたのは、『世界が私を愛してくれるので』がきっかけでした。
私にとって、後にも先にも、これに勝る詩はありません。世界で最愛の詩です。




世界が私を愛してくれるので

世界が私を愛してくれるので
(むごい仕方でまた時に やさしい仕方で)
私はいつまでも孤りでいられる

私に始めてひとりのひとが 与えられた時にも
私はただ世界の物音ばかりを 聴いていた

私には単純な悲しみと喜びだけが 明らかだ
私はいつも世界のものだから

空に樹にひとに 私は自らを投げかける
やがて世界の豊かさそのものとなるために ……

私はひとを呼ぶ すると世界がふり向く

そして私がいなくなる


The Head of Nymph

§ 詩集『空の青さを見つめていると』から
さながら風が木の葉をそよがすように

さながら風が木の葉をそよがすように
世界が私の心を波立たせる

時に悲しみと言い時に喜びと言いながらも
私の心は正しく名づけられない

休みなく動きながら世界はひろがっている
私はいつも世界に追いつけず
夕暮や雨や巻雲の中に 自らの心を探し続ける

だが時折私も世界に叶う
風に陽差に四季のめぐりに 私は身をゆだねる──
──私は世界になる
そして愛のために歌を失う

だが 私は悔いない


【 ミランダ 】

私は言葉を休ませない

私は言葉を休ませない

時折言葉は自らを恥じ 私の中で死のうとする
その時私は愛している

何も喋らないものたちの間で 人だけが饒舌だ
しかも陽も樹も雲も 自らの美貌に気づきもしない

速い飛行機が人の情熱の形で 飛んでゆく
青空は背景のような顔をして その実何も無い

私は小さく呼んでみる 世界は答えない

私の言葉は小鳥の声と変わらない


ウィリアム・ウォーターハウス

私が歌うと

私が歌うと 世界は歌の中で傷つく
私は世界を歌わせようと試みる
だが世界は黙っている

言葉たちは いつも哀れな迷子なのだ
とんぼのように かれらはものの上にとまっていて
夥しい沈黙にかこまれながらふるえている

かれらはものの中に逃げようとする
だが言葉たちは 世界を愛することが出来ない

かれらは私を呪いながら
星空に奪われて死んでしまう

──私はかれらの骸を売る
posted by tuto at 22:40| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ここすげえ

posted by tuto at 22:23| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月30日

友達が自殺したと聞くたびに、いや友達じゃなくても別によくて、ニュースかなんかで日本のどこかで誰かが死んだり事故にあったりしたのを聞くと、それ、俺の役割なのにって思う、今もまだ

突然だが,今注目されているバンド「神聖かまってちゃん」の、日本社会史あるいはパンク史的な意義はもっと指摘されてよい。
和製パンクロックが生まれて30年、日本人はついにこうしたバンドが評価される社会へたどり着いてしまったのかぐらいの衝撃である。


 少し回り道をすれば、2年前の6月8日の秋葉原の路上、私もその場所に居合わせたから忘れもしない。
「非リア充」の26歳男が赤の他人7人を次々とぶっ殺した。「格差社会」「ニート」「希望のなさ」などのバズワードとともに、秋葉原連続殺人は、00年以降の社会に訪れたこうした変化の象徴と言われた。


 その時、僕たちは気づくべきだった。不適切かもしれないが、その事件は別の見方をすれば、パンク好きにとって願ってもない時代の到来を告げていたのである。すなわち、日本で訪れることのなかった”本来の”パンクロックが受容される時代へと、日本が変化(退化?)しているという事実だ。 


 今更説明するまでもなく、1970年代に生まれたパンクロックは、当時の英国社会のなんとも言えないクソッタレな社会環境で生まれた。自国産業は衰退し景気は最悪だった。若者は職も金もなく伝統的な階級社会に阻まれてはい上がることも出来ない、こんな絶望感の中で、パンクロックは圧倒的な説得力をもって浸透していった。


 80年代以降、パンクロックが日本にも輸入され、反社会的な曲が大量生産された。もちろん素晴らしい曲やミュージシャンも次々と生まれたが、すべてに共通する根本的な欠陥があった。それは、当時の日本が総中流社会で、基本的に成長を続ける豊かな社会だったということだ。「フリーター」は当時は自由な生き方として受け入れられた。若者が抵抗する相手は、両親とか、学校の先公(古い!)とか、そんな微笑ましいものだった。ザ・スターリンに影響されてビリビリに破けたTシャツを着る人たち。80年代後半のバンドブームでカラフルに染めた髪の毛をツンツンに立て演奏する人たち。だから彼らの反抗的なパフォーマンスは、すべて豊かな日本人の”真似事”でしかなかった。たとえ人気を呼んだブルーハーツでも、社会派的な曲には説得力がなかった。


 「神聖かまってちゃん」には、この日本のロックが抱えてきた”嘘くささ”がない。それが決定的に新しい点だ。いわば日本のパンクロッカー達が、演技的に”狙って”なろうとしたポジションに、不気味なぐらいナチュラルにすっぽりと収まっている。まるでそこが自分の居場所であるかのように。


 ボーカルのの子は、高校を中退しネットに没入する日々を送った腐れニートだ。感情に極度に左右されやすい社会生活上致命的な問題も抱える。彼は、唯一の希望であるバンド活動において、そのどうしようもない自分自身を、包み隠さずそのまま見せることにした。ピアキャスやニコニコ生放送を使って。渋谷の路上ではライブパフォーマンスをし警察に補導され、自宅では酒を片手に1時間でも2時間でもグダグダトークを展開する。楽曲自体もありえないほど”ありのまま”だ。曲は洗練されてなく、子供のような詩だ。歌い方や演奏も改善の余地がかなり大きい。それを意図的にやったかどうかはともかく、結果としてこれが人気を集めているポイントだった。「そんなポジションからロックを歌われたら、もはや彼ら以外の誰もロックを歌うことなんかできなくなってしまうよ」的な反則技の感すらある。


 日本は間違いなく1970年代のイギリスのように”衰退”している。そんな時代ではミュージシャンは自分をアウトロー的に飾りつける必要はない。「神聖かまってちゃん」のように無加工の姿がそのまま”パンク”表現になって若者の共感を呼ぶ。いいにしろ悪いにしろ、僕たちは今、そんな世界に生きているのである。
posted by tuto at 18:33| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

かっぱえびせん 土味

あたしの恋人 / 谷山浩子

あたしの恋人は 飛行士で
初めての 空を 飛んだ時に
真っ赤な炎 吹き上げながら
落ちてきたけど 死ななかった
それから今まで 生きつづけて
あたしのとなりに 今もいるわ
これからもずっと このままだと
あたしの髪を なでながら

あたしは知ってる あの人が
夜ごとの眠りに夢みるのは
あの日の きらめく 風の中で
燃えつき砕ける 自分の姿
夢から醒めれば またため息
あたしのからだにしがみついて
光のかわりに暗い汗を
風のかわりにくちづけを

あなたが好き
あなたが好き
死ぬまで そばに いてあげるよ

あなたのもの
あなたのもの
死ぬまで そばに いてあげるよ


ひとくいどじんのサムサム

ひとくいどじんのサムサム
おなかがすいて お家(うち)へかえる
かめの中の カメのこを食べる
七口(ななくち)食べたら もうおしまい
ひとくいどじんのサムサム とてもさむい

ひとくいどじんのサムサム
おなかがすいて となりへゆく
友達(ともだち)のカムカムを食べる
二口(ふたくち)食べたら もうおしまい
ひとくいどじんのサムサム 一人ぼっち

ひとくいどじんのサムサム
おなかがすいて 死にそうだ
やせっぽちの自分を食べる
一口(ひとくち)食べたら もうおしまい
ひとくいどじんのサムサム いなくなった





かなしいずぼん




多摩川流域にあこがれた(笑)。
当時(90年あたり)、雑誌「月刊カドカワ」に連載されてた「たまの月経散歩」という記事で、赤羽のあたりを「名曲誕生秘話」とか言ってメンバーが散歩してたの。



赤水門にさらわれて
ぼくらはいなくなっちゃった
まっしろい花で飾られた
四つも葉っぱを食べちゃった
かなしいずぼん




・・の、赤水門がペンキで虹模様に塗られていて「赤水門が虹水門になっちゃったね」とか言って惜しんでたのを覚えてます。
他のメンバーが、知久くんの詩の誕生の瞬間をかなりマジに探ってたのが印象的で・・!
お互いがお互いのファンなんだなぁ・・
と思うとますます彼らに憧れました。


この曲は何と言っても途中に入る、石川さんのアドリブでしょうね。
セリフ入り大曲のうちのひとつ。(他に「学校にまにあわない」「らんちう」「
一応“困った住人に文句を付ける大家さん”という設定なんだけど、ツアーだと大抵がご当地ネタになるかな?

「奥さん(なんや、とおばはん声が返事@やなちゃん)・・あんた・・**でしょ。あんたのその、**で、アタシのうちじゃぁちっとも眠れません!アタシゃ我慢しましょ?でも、アタシの息子は・・奥さんのその**のために・・ついに、**になりましたん、(ここで楽器と間合いを調節)じゃ〜〜〜っ!!!」
(ドン。と太鼓の音。歌い出す)
 かなしいずぼん 遠い昔のぼくらは子供達・・


この基本形に、どんどんアドリブが追加され。
長すぎると歌い手である知久くんが呆れてしゃがみこんじゃったり。
急に石川さんが「じゃ〜〜〜っ」と叫んで、慌てて知久くんマイクまで走ったり。

ある時期のたまの、たまらしい部分が凝縮されてる曲なのね。
たまの根幹である、知久くんの詩情。
やなちゃんのコーラスが示す、豊かな即興性。
やなちゃんと知久くんのハーモニー。
石川さんの前衛的・演劇的パフォーマンス。



この曲はGさん(ベース)加入前の曲のせいか、Gさんの出番は特にないんだけど。。
アドリブは苦手でも、彼のベース、きっちり仕事してます。




「四つも葉っぱを食べちゃった」が好きです。
“食べちゃった”のところが特に・・!
大切に歌いますね。
こういう風に歌われると、“芸”を見せてもらってる、という気がします。
詩を、詩人本人が朗読してるようなもので。



くるおしい草むらの物置の机の上に
かざったね ながめたね


も、韻を踏んでてね・・語感がおもしろいの。


それに続く、

遠い昔のぼくらは子供たち


・・の延々続くリフレインも好きです。
そこに、やなちゃんの


日曜の夜は出たくない
魚になりたくない
日曜の夜は外に出たくない
死体になりたくない




というコーラスがかぶさってきて、いかにもこれは初め即興でやってたのが定着した、って感じですね。
知久くんの曲にやなちゃんが割り込み、そこにまた知久くんがコーラスをいれる。
石川さんの合いの手もだんだん狂気じみてきて・・(失礼)
さいごは圧倒的な合唱で終わります。
ちょっと残響を残して。。



ブラーヴィ!



v階段の一番上にあかりがついたよ

近づいてよく見てごらん

そばで見てごらん

でも近づけばそこにない

後ろにある

でも振り向けば後ろにない

左にある



階段の途中のどこか あかりがついたよ

近づいてよく見てごらん

そばで見てごらん

目をこらして見つめるほど

ぼやけていく

視界の外へ逃げていく

気配が消える




降りて行こう 螺旋階段

下へ下へと どこまでも

降りて行こう まわりながら

夢の底へと 続く道




ひとつの扉をあけたら

百・千・万の

億・兆・京・那由多・阿僧祇の

扉があいた

ひとつの扉をとじたら

百・千・万の

億・兆・京・那由多・阿僧祇の

扉がとじた



ひとつ確かなことがある

確かにひとつ

それは確かにひとつある

ひとつ確かに



ふたつの次はここのつで

次はななつ

真夏のツノはココナツの

常夏のツノ



降りて行こう 螺旋階段

夢が醒めれば また夢だ

降りて行こう まわりながら

底が抜けたら その下へ




階段の一番下にあかりがついたよ

階段の一番下なんて ほんとはないんだよ

僕は無限を抱いている

眠りの奥

夢のスープを泳いでいく

ねじれていく




降りて行こう 螺旋階段

おりれば ゆるり 溶けていく

降りて行こう まわりながら

溶けて 崩れて いなくなる







最終避難場所のともだちとキスをして とかげの棲む公園をあとにした
きみのあたまは誰かのいたづらでもうこわれちゃってるから
図書館のガラスを割って入る
誰もいないから 君しかいない 誰もいないから僕のいうこときこうね


「電車かもしれない」 / たま

ここに今ぼくがいないこと誰も知らなくて
そっと教えてあげたくて君を待っている
ホラ もうそろそろだよ
物理の成績の悪い子どもたちが 空中を歩き回る時刻
夕方ガッタン電車が走るよ夕間暮れの空を
ぼくらは生まれつき体のない子どもたち

ここに今ぼくがいないこと誰も知らなくて
そっと教えてあげたくて君を待っている
ホラ 寂しい広場では
まるで算数を知らない子ども達が 砂を耳からこぼしているよ
台所ゴットン電車が通るよよそのうちの中を
ぼくらは生まれつき体のない子どもたち

夕方ガッタン電車が走るよ夕間暮れの空を
ぼくらは生まれつき体のない子どもたち





公園にいる浮浪者どもに森田童子の『ぼくたちの失敗』大音量で聞かせれば
何かおこるかもしれん



海が死んでもいいよって呼んでいる




君の青春は輝いているか
本当の自分を隠してはいないか

君の人生は満たされているか
ちっぽけな幸せに妥協していないか

宇宙全体よりも広くて深いもの
それは一人の人間の心

愛が欲しければ誤解を恐れずに
ありのままの自分を太陽にさらすのだ


安全カミソリがやさしく ぼくの手首を走る 
静かに ぼくの命は ふきだして
真夏の淋しい 蒼さの中で ぼくはひとり 
真夏の淋しい 蒼さの中で ぼくはひとり やさしく発狂する


足元の石くれをよけるのが精一杯
道を選ぶ余裕もなく 自分を選ぶ余裕もなく
目にしみる汗の粒をぬぐうのが精一杯
風を聴く余裕もなく 人を聴く余裕もなく
まだ空は見えないか まだ星は見えないか
ふり仰ぎ ふり仰ぎ そのつど転けながら
重き荷を負いて 坂道を登りゆく者ひとつ
重き荷も坂も 他人には何ひとつ見えはしない
まだ空は見えないか まだ星は見えないか
這いあがれ這いあがれと 自分を呼びながら 呼びながら

掌の傷口を握るのが精一杯
愛をひろう余裕もなく 泥をひろう余裕もなく
ひび割れた唇は噛みしめるのが精一杯
過去を語る余裕もなく 明日を語る余裕もなく
がんばってから死にたいな がんばってから死にたいな
ふり仰ぎ ふり仰ぎ そのつど転けながら
重き荷を負いて 坂道を登りゆく者ひとつ
重き荷は重く 坂道は果てもなく続くようだ
がんばってから死にたいな がんばってから死にたいな
這いあがれ這いあがれと 自分を呼びながら 呼びながら
posted by tuto at 18:24| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月29日

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。