2008年11月14日

dfghjkl

英語に圧倒的に一人勝ちする7つの言い回し125

英語というのはぼくはほとんど喋れないのだが、ぼくの友人に英語に圧倒的に一人勝ちしている人がいる。

彼は、なんでも行く先々で「お前はおれが会った日本人の中で一番英語が上手いな」といつも言われるのだそうだ。

しかし彼の英語は、確かに威勢と度胸は良いのだが、単語をそんなに知っているわけでもないし、発音だって日本語英語丸出しだ。彼自身もそれを自覚していて、だからなんで自分がそんなに上手い上手いと言われるのか、長いあいだ疑問だったのだそうである。



そんなある時、この日も初めて出会った人に「お前の英語は最高だな」と言われたもので、とうとうなんでそう思うのかを聞いてみた。すると、その答がふるっていた。

なんでも、彼の英語は、聞けば一発で日本人と分かるたどたどしいものなのに、実に気持ち良くコミュニケーションできるのだそうである。

その人に言わせると「日本人というのは、英語が分からないとたいていはにかんだような笑顔でふんふんと頷いているだけだから、全くコミュニケーションが成り立たない。そして、これまでその手の日本人にあまりにも多く会ってきたから、逆にペラペラ喋れる日本人に会うと、今度はもうそいつは日本人じゃないと思うようになってしまった。だから、日本人だと認識させつつ、なおかつ英語も上手いと感じさせたのは、お前が一番」なのだそうである。



さて、そんなふうに「日本人の中で最も英語が上手い」という称号を何度ももらった彼が、外国人(主にアメリカ人)に英語が上手いと言わせる秘訣と言うか、これを使えば上手に思われるという「言い回し」をいくつか教えてくれたので、それをここに紹介したい。

彼に言わせると、英語に自信のない人も、これらの言い回しさえ使えば(それもできるだけ多用すれば)それだけでもう、一発で外国人から英語が上手いと思われ、コミュニケーションが円滑にはかれるようになるとのことであった。



外国人に英語が上手いと思われる7つの言い回し


その1「probably」
まずはこの「probably」なのだそうである。これを「yes」か「no」の前に持ってくる。「yes」か「no」と返事をしなければならない時、前に「probably」を持ってきて、「probably yes」とか「probably no」と答えるようにするのだそうだ。

するとこれが、外国人には大受けなのだそうである。これを言うと、「おっ」という感じでこちらを向き直るらしい。それから嬉しそうにニヤッとするのだそうである。そうして、何か中国拳法の老師が活きの良い弟子候補の若者を見つけた時のような、「こやつなかなかやりよるわい」というような顔をするのだそうだ。

この「probably」というのは「多分」とか「おそらく」という意味である。そうして日本人は、なぜかあまりこの「probably」を使わないらしい。

アメリカ人は、日本人というのはもともと表現の曖昧な人種で、感情をあまり表に出さないものと思い込んでいる。しかしその割には、この「probably」を使う人が少ないので、ちょっとしっくり来ないのだそうだ。

おそらく多くの日本人は「郷に入れば郷に従え」で、外国人と話す時は曖昧な表現はなるべく避けようと心懸けているのだろう。だから、「probably」を使わないようにしているのだと思うのだが、しかしそれが外国人にはしっくり来ないと言うか、ちょっと物足りないのだそうである。

そうした時に、「probably」を威風堂々と使う日本人が現れると、「おっ、これぞおれの想像していた日本人だ」ということで、ちょっと嬉しくなるのだそうである。

だから、外国に行ったらもう遠慮することなく「probably」をバンバン使うと良いらしい。外国人受け良いことこの上ないのだそうだ。



その2「that's why」
2つめはこの「that's why」だ。

外国人が日本人と話してて一番困るのは、「理由を話さない」ところだという。いわゆる「阿吽の呼吸」を求めるところだ。これが、外国人にとっては日本人とコミュニケーションをはかる時の大きな障壁となっているのだという。

そうした時に「that's why」と聞くと、もうそれだけで嬉しくなってしまうのだそうである。それは砂漠にオアシスで、「おれが求めていたコミュニケーションはまさにこれだったのだ!」という気持ちにさせられ、大いに心を開いてくれるのだという。そうして、どのホールのグリーンにはガラガラヘビが出るから気をつけろといった、他の人には絶対に話さないようなレアな情報まで、なんでもペラペラ教えてくれるのだということだ。

だから、外国人相手にはとにかくこの「that's why」を多用して、自分がなぜそう思うのか、その理由をしつこいくらいに説明した方が良いのだそうである。外国人には、日本人だったらちょっとくどいかなと思うくらい噛み砕いて話すのがちょうど良いのだそうだ。



その3「yap」
これは2つ目と矛盾するのだが、日本人はとにかく返事が「yes」か「no」の二択しかなく、つまらないのだそうである。その中間と言うか、どっちとも言えるノリの良い返事がない。四角四面で杓子定規だ。面白味も何もない。

外国人も、時にはノリとか面白味を求めるのである。そうして、会話にもっとリズム感というか、ノっていけるグルーヴ感を求めている。だから、折角こっちが気持ち良く会話を進めているのに、かしこまって「yes」とか「no」とか答えられると、それだけで興をそがれてしまうのだそうだ。

ところが、そんなところで「yap」なんていうノリの良い返事をもらえると、地獄に仏、闇夜に灯火で、ありがたいと拝みたいような気持ちにさえさせられるのだという。そうして、会話もどんどん楽しくなってくるから、どんどん心を開いて、どんどんうち解けてくれるのだそうだ。

だから、外国人がなんか英語で勢いよくバーッと喋ってるなと思ったら、とりあえずは「yes」でも「no」でもなく、「yap」と答えておくのが得策だということだ。それだけで、外国人のあなたに対する好意のバロメーターは鰻登りに上昇すること請け合いなのだそうである。



その4「you mean」
これは「その2」の裏返しのことなのだが、とにかく日本人は理解してないくせになんでも理解した振りをするのだそうである。そしてそれが非常に厄介だということだ。

例えば頼み事をしたら、「Yes, OK」とか言ってニコニコと笑ってる。だからすっかり理解してくれたのだろうと思って暢気にかまえていると、いつまで経っても何もしてくれない。だから、痺れを切らして「どうしてさっきのことをしてくれないのだ?」と聞くと、また「Yes, OK」と言ってニコニコ微笑んでる。それでようやく、これはどうも変だぞということに気がついて、よくよく問い質してみると、さっきの言葉は実はちっとも通じてなかったというのがこの段階になってハッキリするのだ。

だから、外国人は日本人に対して「分からないなら分からないとハッキリ言ってほしい」と思っている。それを、分からないことは恥だと思ってこちらの気持ちを忖度し、結局ディスコミュニケーションになるいうのが一番困るのだという。外国人にとっては、通じなかったというのは恥でもなんでもないから、その時は遠慮なく尋ね返してほしいのだ。

そうした時に「you mean」から始まって会話の内容を尋ね返されると、もうそれだけでこいつは信用に足るやつだと、嬉しくなるのだそうである。こいつとはコミュニケーションが成り立つということで、普通なら無理かと思われた融資も二つ返事で引き受けてくれるようになるらしい。

とにかく、彼らは日本人の知ったかぶりに閉口してるから、「you mean」と一々聞き返してくれる日本人が現れたら、それだけでもう決済が通ったかのような気分にさせられるのだということだ。



その5「said so」
外国人、特にアメリカ人は、日本人はとにかく秘密主義で、自分のことを語ろうとしないところに大きな不信感を抱いている。とりわけ自分の交友関係を隠したがるところが嫌いらしい。

そのため、日本人は信用ならないやつだと常々憤懣やるかたない思いを抱え込んでいるのだけれども、そうしたところに自らの人間関係をオープンに、それもさりげなく伝えてくれる人と出会うと、掃き溜めに鶴ではないが、何か神々しく輝いて見えるのだそうだ。とても開けっぴろげな人間で、親しみやすく、またつき合いやすいと思うのだそうである。

そういうキャラクターを演出するのにもってこいなのが、この「said so」という言い回しなのだそうだ。前に付くのはなんでも良い。「My mother said so」でも、「My dog said so」でも、とにかく「誰かが何かを言っていたぜ」というのが会話の中に盛り込まれていれば、それだけで「ああ、こいつはコミュニケーション能力があるやつなんだな、信じても良いんだね」と好意的に受け取ってもらえ、それ以降の会話がとてもスムーズに進行するのだということだ。



その6「you know」
次は「you know」。これは純粋なテクニックなのだが、この言い回しを上手に使いこなす日本人はほとんどいないそうである。

意味は違うが、これは日本語で言うところの「マジで?」に当たるようなものだという。日本人が、「マジで?」という言い回しの使い方が上手い外国人がいたら感心するように、外国人も、「you know」の使い方が上手い日本人がいたらとても感心するのだそうだ。

「you know」は、だいたい話し始めに枕詞のように使うのがミソだ。その後に付くのはなんでも良いのだそうである。「You know, this is a pen」でも「You know, no one I think is in my tree」でも、とにかくなんでも良い。

これさえ使いこなせるようになれれば、それだけでもう、日本人だからということでなめられたりはしなくなる。一定の敬意を持って、立派な大人として、あるいは紳士として遇してもらえるようになるのだそうだ。



その7「holy Kansas!」
最後は、友人の使ってる裏技中の裏技を教えてもらった。

英語には、「holy」の後に何か言葉を付けて、驚いた時の言い回しによく使うのだそうである。最もポピュラーなのは「Holy shit」だろうし、あるいは「Holy Jesus」も有名だろう。

だけど、これはあまりお行儀が良くないいわゆる隠語の類で、人前では使ってはいけないという建前があるらしい。特に子供が使ったりすると、うるさ型のご婦人からたしなめられたりするし、フォーマルな場所で使えば、大人でも皆から眉をひそめられる。

それでも、あまりにも一般的な言葉なので、つい驚くと人は「Holy……」と言いかけてしまうのだそうである。しかしそこで言ってはいけないというのを思い出して、その後に何か違う言葉を持ってきてごまかすというのが、アメリカでは生活のそこここでよく見かける微笑ましいシーンらしいのだ。

それは、関西人で言うなら「このドア(ホ)……を開けっ放しにしたらあかんよ」といったような感じだろうか。とにかくこの「Holy」の後に何か違った言葉を持ってくると、それだけでちょっとユーモラスなシーンを演出することができるのだそうである。

そこで知人は、よく驚いた時の表現に「Holy Kansas」という言葉を使っていたのだそうだ。なぜ「Kansas」なのかと言えば、「Jesus」と語呂が似ていたから使っただけらしいのだが、しかしアメリカ人には、その語呂の似ているという感覚はほとんど通じなかったらしい。だから、これを言うとたいてい「どうしてKansasなんだ?」と聞かれたらしいのだけれど、そういう時に友人は、いつでも「今ネットでこれが流行ってるんだ」とかなんとか言って、ごまかしてたのだそうである。しかしそういうふうにごまかすと、たいてい「そうなのか、君は物知りだね、勉強になったよ!」とありがたがられたらしいから、友人が交流してきた人のあいだでは、もしかしたら今でもひそっりとこの「Holy Kansas」が息づいているかも知れないとのことであった。



まとめ
以上が、友人が外国人と英語で話す時によく使う言い回しなのだそうである。そうして、友人はこれらの言葉を使うだけで、英語に圧倒的に一人勝ちしてきた。

だから、英語に取り込まれそうな未来がもし来るようなことがあるのだとしたら、これらの言葉を使うようにすると良いだろう。それだけでもう、一人一人の個別具体的な個々人が、英語に圧倒的に一人勝ちするという豊穣で豊かな日本の未来が――日本語の夜明けが――そこここに開けてくるのだから。


http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081111/1226409288



絶対に遅刻しない女の子がいる76

「最近の若者は――」という言説をよく聞く。たいていはネガティブなイメージで語られることの方が多い。曰く、最近の若者はひ弱になった、最近の若者はバカになった、最近の若者は覇気がない、最近の若者はすぐ挫ける、最近の若者は何を考えているのか分からない……

しかしぼくは、若者をそういう目で見たことがない。それは、ぼく自身がとてもだらしない人間なので、たいていの人がぼくより立派に見えるからというのはあるけれど、それを抜きにしたって、逞しく、したたかで、尊敬できる若者というのは多い。若者礼賛というわけではないが、若者の中にもそういう人がちゃんといるということだ。

特に、ぼくの知っている若者には、心の底から尊敬でき、敬服できる人物が何人かいる。そういう人を知っているから、ぼくは、若者というのを一括りに否定することができないのだ。



ぼくの知ってる若者に、絶対に遅刻をしない女の子がいる。どんな時でも、集合時間の10分前には必ず到着している。しかも、どんな時でも身だしなみをきちんと整えている。家を出る1時間前には必ず起き、もろもろの準備を済ませてから家を出る。もちろん女の子だからというのもあるけれども、人前でだらしない顔は絶対に見せない。そこのところには、頑ななまでにこだわっている。

一度、「なんでいつもそんなに早く来てるの?」と尋ねたことがあった。しかし彼女は、「だって、早く着いてないと気持ち悪いじゃないですか」と答えただけで、あとは照れ笑いのような表情を浮かべ、それ以上多くを語ろうとはしなかった。



彼女は皆の尊敬を集める存在だった。誰もが彼女に一目置いていた。それは大人も子供もだ。どんな人間も、彼女と接すると、その極限まで自分を律するストイックな姿勢や、どんな人間にも平等に、しかも偉ぶることなく接する謙虚さに、一目置かないわけにはいかなくなる。

彼女はいつも練習に励んでいた。練習場に来るのはいつも一番乗りだったし、また帰るのも一番後だった。みんなが帰ったその後で、一人黙々と練習していることもあった。

誰もが彼女のことをすごいと思った。だけど、彼女はみんなのお手本になったわけでは必ずしもなかった。なぜなら、彼女はあまりにすごすぎて、「これは真似できない」と誰もが思わせられるからだった。みんな彼女ことを見習えなかった。彼女はそれほどすごかった。

しかしかと言って、彼女がいない方が良いというわけではなかった。彼女はみんなの支えだった。みんな彼女のことを頼りにしていた。いざという時、彼女に助けてもらうことを期待していた。彼女はチームのエースだった。あるいはリレーのアンカーのようなものだった。どんなに苦しい時でも、どんなに窮地に立たされた時でも、彼女がいれば大丈夫、彼女がいれば安心、いざとなったら彼女がいる――みんな、そんなふうに彼女を頼り、そんなふうに彼女を慕っていた。



彼女の素晴らしいところは、そういう立場を躊躇うこともなく引き受けているところだった。普通、皆からそういう目で見られると、それを重荷に感じたり、プレッシャーに感じたりするものだけれど、彼女にはそういうところがちっともなかった。むしろ引き受けた上で堂々としてた。皆からそういうふうに頼られ、慕われても、一向に動じなかった。

彼女は、もともととても独立心の強い子だった。そして自尊心も大きかった。気持ちの大きな子だった。だから、皆からそういうふうに頼られても、舞い上がったり、変に責任を感じたりすることはなかった。平気の平左で、では、頼られるなら頼られましょうという感じだった。自分に責任が回ってくれば、それなら負わせて頂きましょうという感じだった。



かと言って、彼女には皆を引っ張っていくようなところはなかった。困った人を見れば助けたけれど、自分から他人に働きかけるということはまずしなかった。怠けている者を注意したり、やる気を鼓舞したりするようなところは全くなかった。

彼女は、自分はそこまでの人間ではないと考えていた。とても謙虚なのだ。彼女は、自尊心と謙虚さというものを同時に兼ね備えていた。自分に対してはどこまでも厳しいのに、他人に対してはどんな人間にも一目置いていた。そしてどんな人間にも平等に、敬いの気持ちを忘れずに接した。人の悪口を言うようなことは絶対になかった。

ぼくは、そういう人間を見たことがなかったから、初めて彼女のことを知った時には本当に驚いた。そして、そうした自尊心と謙虚さというものを両立できるのだということも、彼女と出会って初めて知った。



彼女は、まだ若くしておそろしく人間ができていたけれど、けっして聖人君子というわけではなかった。一面には強烈なクセがあり、また強烈なこだわりがあって、強烈なプライドも持っていた。

彼女は、自分がやりたくないことは頑としてやらなかった。例え親友からの頼みであっても、できない時にははっきり「ノー」と断った。そんな時、親友から「友だちがいがないなぁ!」と責められても、彼女はただ苦笑いを浮かべ、「ごめんね」と謝るだけであった。



また彼女は、自分がやろうと思ったことができなかったりすると、とても悔しがった。

ある時、彼女はその時取り組んでいたことがなかなか上手くできないことがあった。何度やっても失敗し、その度にやり直すのだけれど、なかなかその泥沼を抜け出すことができないでいた。一緒にやっていた子はちゃんとできていて、もう終わって彼女のことを待っていたのだけれど、彼女だけはいつまで経ってもそれを終わらせることができなかった。そうして、その状態のまま、ずいぶんと長い時間が経過した。

その時だった。ふと、彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちてきた。それは不思議な泣き方だった。声を上げたり、身体を震わすようなことはなかった。ただ涙を流すだけなのだ。それ以外は普通のなのに、目から涙だけが溢れてくるのだ。それでも彼女は、なおもそれを続けようとした。溢れる涙を拭おうともせず、なおもそれに挑戦し続けようとした。

しかしその時は、さすがに周りにいた者が彼女を止めて、後日やり直すことになった。その時の、彼女の情けなさそうな顔は今でも忘れられない。その時の、悔しそうに自責する彼女の表情というものが、今でも脳裏に焼き付いている。



彼女は、そういうふうに一途なところがあったから、必ずしも協調性があるというわけではなかった。いつでも空気を読んで、場の雰囲気をリードするというわけではけっしてなかった。どちらかと言えば空気の読めない方だったし、どちらかと言えば一本気でおっちょこちょいなところがあった。

しかし彼女は、そういうところを覆してあまりある、強烈なやさしさの持ち主であった。そのやさしさは他を圧倒していて、どんな者も敵わなかった。その彼女のやさしさに触れた時、人は、そこに慈愛とか母性といったものの本質を見る思いにとらわれるのだった。そしてぼくも、そんな彼女のやさしさを目の当たりにした時、目の前がチカチカとした、目眩にも似た強烈な衝撃を覚えた。



ある時、彼女の親友が何かがあって泣いている時があった。その時、彼女の取った行動は、ただその親友のそばにいて、頭をやさしくなでてあげることだった。言葉は何一つかけなかった。ただ、その髪をいつまでもいつまでも、親友が泣いてるあいだ中はずっと、やさしくなでてあげていたのだった。

そしてその間、彼女はずっと、その泣いている親友を一心に見つめていたのだった。その大きな目をいつもより大きく見開いて、親友の一挙手一投足、どんな動きをも見逃さないように、まばたき一つしないような一心さで、ただただ見つめ続けていたのだった。



あるいは、また別の時、別の友だちが、自分の気持ちをストレートに表現できずに、ストレスを溜め込んでいる時があった。そんな時、どこでその気配を察したのか、どこからともなくその友人に近寄っていった彼女は、そこで彼女に対して、問わず語りに自分のことを話し始めた。

彼女は、そこでただ自分のことを喋り続けた。彼女にしては珍しく、自分がへこたれそうになった時のことや、挫けそうになった時のことを話した。また、自分の失敗談というものをも話した。彼女はそこで、自らの悔しかった経験や、満たされなかった思いなども、包み隠さず、正直に吐露した。

それを聞いた友だちは、それに対して何かを答えたわけではなかった。ただ黙って聞いるだけだった。しかし聞き終わると、ちょっと表情が違っていた。その話を聞いたことによって、心に奥底に澱のように溜まっていたどろどろとした気持ちが、いくらか洗い流されたようであった。



彼女は強い子であった。そんなふうに、人を助けたり、やさしさをかけてあげることになんの躊躇いも抱かなかった。人からどう思われるかを考えたりはしなかった。そういう時、ただただ自分のうちから溢れ出てくるやさしさというものを、躊躇うことなくかけてあげるのだった。

また彼女は、人にやさしくするだけでなく、人からやさしくされることに対してもなんの躊躇いも抱かなかった。彼女は、たとえどんな相手からであろうと、やさしくされたり、やさしい言葉をかけてもらったりすると、心から嬉しそうな顔をして、ありがとうと言って素直に喜んだ。

彼女は、人から愛されることに対して全く躊躇いがなかった。どんな人物からであろうと、それが愛情であれば、素直に受け取って喜ぶのだった。

またそういう時、彼女は本当に饒舌になった。彼女はものすごいお喋りで、親しい者にはもちろん、そうでない者にも、自分の話を聞いてくれる相手に対しては、喜々としていつまでも喋り続けるのだった。



彼女はけっして社交的なタイプではなかった。人を引っ張っていくリーダーシップがあるわけでもなかったし、みんなをまとめたり、何かを意見したりするようなところは皆無だった。

彼女はむしろ孤独な人間だった。けっして人嫌いというわけではないけれど、一人で行動することになんの躊躇いもなかった。したくないことはしたくないとはっきりと答えたし、その逆に、自分がやりたいことに対しては、例え一人ででも取り組んだ。

彼女は、一人であったり孤独であったりすることを厭わなかった。自らこうと決めたことに対しては、周りの反応を気にせず、それに向かって迷わずに突き進むところがあった。



ところが、そんな彼女が一度だけ、人に対して何かを言う場面をぼくは見たことがあった。

それは突然訪れた。これまでは、けっして誰かに意見をしたり、みんなをリードするようなことは言わなかったのに、その時だけはなぜか突然、誰に求められたわけでもないのに、自らみんなの前に進み出ると、そこで、自分の考えを述べ始めたのである。

周りの人間は、これまで彼女がそういうことを言うのを聞いたことがなかったから、本当にびっくりしてその言葉に耳を傾けた。また彼女がいつだって真剣で真摯で強い思いを抱えていることは知っていたから、その言葉も真剣に、また真摯に受け止めたのだった。



このできごとは、ぼくにとっても大きな衝撃だった。ぼくは、まさか彼女がそういうことを口にするとは想像もしていなかったので、それを目の当たりにした時には、本当に驚かされた。また、それと同時に形容しがたい大きな感動にも襲われた。その時ぼくを襲ったのは、人が変化し成長する時に発する美というものの、そのあまりの美しさに対する感動であった。

その時の彼女は本当に美しかった。これまで、けっして人に何かを言うことをよしとせず、不言実行で、言葉よりは行動で何かを示そうとしてきた彼女が、しかしその時、きっと何かを感じたのであろう、そうした今までの自分というものを一瞬にして、しかも躊躇うことなく脱ぎ捨てて、今この瞬間、新たなる自分というものへと脱皮、飛翔したのであった。

ぼくはそこに、生命というものの無限にも近い可能性と、その圧倒的な美というものを見た。それを見たぼくは、涙が溢れてくるのを抑えることができなかった。泣いているところを見られるわけにはいかなかったので、それを隠すのは本当に大変だったけれども、後から後から溢れ出てくる涙は押しとどめようもなかった。



この瞬間、ぼくの彼女に対する尊敬の念は決定的なものとなった。彼女は、ぼくよりずっと年下だし、また異性でもあったけれど、ぼくは、彼女にはもう絶対に敵わないという思いと、その尊敬の念を、一層強くさせられたのだった。



そういう人間が、若者にはいるのである。そのことだけで、ぼくはもう、若者のことを一括りにして悪く言うことはできないのだ。

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080726/1217073495
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2008年11月07日

カド…

とんでもない。きみはぼくらにすばらしいおくり物を残していってくれるんだよ。数えきれないほどのね。最初のおくり物はきみがうまれてきてくれたことだ。午前3時ごろだったよ。きみの産声が天使のラッパみたいにきこえた。あんな楽しい音楽はきいたことがない
。「病院をでたとき、かすかに東の空が白んではいたが、頭の上はまだ一面の星空だった。こんな広い宇宙の片すみに、ぼくの血をうけついだ生命がいま、うまれたんだ。そう思うとむやみに感動しちゃって。涙がとまらなかったよ」「それからの毎日、楽しかった日、みちたりた日日の思い出こそ、きみからの最高の贈り物だったんだよ。少しぐらいさびしくても、思い出があたためてくれるさ。そんなこと気にかけなくていいんだよ」
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ミナ…

私はまだ全く結婚願望はなく、女の子と付き合っていても、「この子と結婚したい」とまで思うことはないのだが、過去に一度だけ、ある瞬間に、結婚したくてしたくてたまらなくなったことがある。



あれはたしか、夏の蒸し暑い夜の事だった。

当時付き合っていた女の子が夕方からアパートに泊まりに来ていて、私たちは、適当な夕飯を食べ、DVDで映画を一本観た後、順番にシャワーを浴び、それから、二人で1000ピースのパズルをしたのだ。ミッキーマウスか何かの絵が描いてあるパズルだったと思う。

真夜中、私たちは二人で、隣同士に寝そべって、ほとんど会話も交わさず、黙々とパズルを作り続けた。

途中、何度か彼女が、「もういいから寝よう」といった主旨のことを言ったように思う。だがそのころの私は、一度始めたパズルを放り出して眠る事は、パズルに対する冒涜であるように感じていた。ようするに、狂っていたのだ。だから、彼女の提案を撥ね除け、再び、ひたすらパズルのピースを組み合わせ続けた。

パズルを始めてから、数時間が経っていたと思う。私は一息ついて、ようやく視線をパズルから外し、何の気なしに隣にいる彼女に目をやった。

彼女は、いつの間にか眠っていた。パズルを作っている時の姿勢のままで。


そして、彼女の二の腕あたりには、なぜかパズルのピースが一枚貼り付いていた。


この瞬間だ。


この瞬間、私はもうどうしようもなく、「この女と結婚したい」と思ったのだ。この機会を逃したら、もう二度と、二の腕にパズルのピースが貼り付くような女とは出会えないと、そして、どれだけ着飾っていようが、顔が可愛かろうが、スタイルが抜群だろうが、二の腕にパズルが貼り付かないような女とは、俺は絶対に結婚したくないと、そう強く思ったのである。



この話はとても良い話だと思うのだが、これまで誰かに話して共感を得られた事はないし、あなたたちがパソコンの前で近年まれに見るキョトンヅラになっているのも、すごくよく分かることだ。

ただあれ以来私は、男ってもんは、しかるべき時に、しかるべき場所にパズルのピースが貼り付いている女を見たら、その女と激しく結婚したくなるもんなんだと、そう遺伝子に刻まれてるのだと、そう思って生きている。

posted by tuto at 20:37| 東京 ☀| Comment(0) | さとし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あゆみちゃんへ

 あゆみちゃんももう6年生だもん、好きな人の1人や2人はいるんじゃない?
 その人といっぱい話がしたいな、仲良くしたいな、一緒に遊びたいなって思うこと、あるよね。で、その人にも、自分のこと好きになって欲しいなって思うでしょ。
 でもまだ今は、キスしたい、なんてあんまり思わないんじゃない?
 これからね、あゆみちゃんが大人に近づいて行くにつれて、好きな人と手をつなぎたい、ふれあっていたい、キスしたい、っていう風に、だんだん好きな人に対しての思いが変わってくると思うんだ。

 そしてそのうち、あゆみちゃんも誰かと付き合うようになるかもしれないね。
 お互いにすごく好きになって、一緒にいたい、もっとふれあっていたいって思うようになるかもしれない。
 でね、ここからが大切なんだけど、からだが大人になった人、つまり子どもをつくる力を持ってる人同志が、お互いにすごく好きになって、相手の人とふれあったりするようになると、男の人も、女の人も、「性的こうふん」っていうのが起こることがあるの。「性しょうどう」とも言うよ。
 でも、「性的こうふん」の起こり方は、まず男の人と女の人では違うし、それより前に人それぞれ違うから、お互いに大好きでも、一人だけに起こることもあるんだよ。
 お互いにその「性的こうふん」を高めるために、キスをしたり、いろいろなところをやさしくふれあったりもするの。

 「性的こうふん」っていうのが起こると、男の人は「ペニス」(おちんちんのことね)に血が集まってきて、大きくなって来るの。これが「ぼっき」って呼ばれてるものだよ。
 で、女の人は、「ちつ」からとうめいな液が出てきて、「ちつ」の中がやわらかく、すべすべになって来て、ペニスを受け入れる準備をするの。
 そして、固くなって入れやすくなった男の人のペニスを、受け入れる準備が整った女の人の「ちつ」に入れて、中で射精をすることで、精子を卵子の待つところへ確実に送り届けるっていうしくみになってるんだ。
 これが「セックス(性交)」だよ。
 その時に、卵子が精子と出会って「受精卵」になると、赤ちゃんが出来るんだよ。これは5年生の時に理科で習ったよね。



 あゆみちゃんにはまだ先のことかも知れないんだけど、今から覚えておいて欲しいことがあるんだ。
 一つは、セックスって、からだが主役じゃなくて、心が主役なんだよってこと。
 だんだんに分かってくると思うけど、セックスって、赤ちゃんが欲しい時だけするもの、って訳じゃないんだ。
 でもね、気持ちいいからっていうだけでするものじゃ決してないし、ましてやセックスしてお金をもらったりするものでも絶対にないんだよ。
 もう一つは、大好きな相手と自分と、2人のうち1人でもしたくない時には出来ないものだってこと。
 自分がしたくない時には「いやだっ」って言える関係でいて欲しいし、そういう関係じゃなきゃ、本当の意味で付き合ってるとは言えないって思うんだ。


 人間って他の動物とは違って、赤ちゃんが欲しいなって思わなくても「性的こうふん」が起こるし、同性の人に対して「性的こうふん」が起こることもあるの。そういう意味では、人間ってとっても不思議な動物なんだよね。
 あたしも30年近く生きてて、セックスだってしたことあるけど、セックスって何だろう?っていまだに思うし、分からないこといっぱいあるんだよ(笑)。
 これから先は、あゆみちゃんが、自分で「へぇ、こんなことが起こるんだ」っておどろいたり、感動したりしながら、ゆっくり時間をかけて、一つ一つ自分のものにしていって欲しいなって思うんだ。

posted by tuto at 00:21| 東京 ☀| Comment(0) | さとし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月30日

aaa

この惑星上には、そもそも大人などいません。

ただ、65億人の子供がいるだけです。

幼い子供が、少しだけ年上の子供に、「どうして勉強しなきゃいけないの?」と訊いているだけなのです。

「大人はその答えを知っていて、子供はその答えを知らない」などということはありません。

そのちゃんとした答えを知っている「大人」などという生き物はいないということを、まず認めるべきです。



つまり、子供も大人も、自分の人生の経営者であるという点では同じなのです。

子供もすでに自分の人生を経営しているのです。

大人が子供にアドバイスするというのは、単に経験の浅い経営者に対して、それよりは少しだけ経験の多い経営者がアドバイスしているだけのことなのです。



このことの自覚がないと、子供にダメなアドバイスをしてしまいかねません。

子供の質問に対する、大人のダメな回答は、次の二つのパターンに分類できます。



(A)正しいことを答えているけど、伝え方がダメ。

(B)そもそも大人自身が答えを分かってない。



全ての大人は、この(B)を自覚するところから、はじめるべきだと思うのです。



これは、ビジネスにおける、営業提案のプレゼンと同じです。



(A)提案するソリューション自体は良いのに、プレゼンの仕方が下手で、相手に伝わらなかったり、誤解されたりする。

(B)見せ方をいくら取り繕っても、元となるソリューション自体がダメなので、お客さんのかかえる問題が解決できない。



で、普通にちゃんと仕事のできる営業マンは、次の3つのステップで営業提案書を書きます。



ステップ1:(B)問題を正しく把握し、正しい結論をしっかり見定める。

ステップ2:それに基づいて、(A)今の時点ではどのような見せ方をしておくか、を考える。

ステップ3:最後に(A)をパワーポイントの営業提案書に落とす。



ということで、ここでは、ステップ1の、

そもそも、子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」に対する適切な回答はなんなのか?

について考えているわけです。





で、ようやく本論にはいります。

そもそも、経営戦略の立案において、まずやるべきなのは、次の二つをセットにしたものです。



●厳しい現実を直視する

●「最後には必ず成功する」という信念を持つ



つまり、一切の希望的観測を捨て、どんなに絶望的な現実からも、決して目を背けず、直視することです。

そして、そのような厳しい現実にもかかわらず、最後には必ず「すばらしい人生」にできるし、してみせる、という信念を持つことです。



この厳しい現実には、自分の運動神経の鈍さとか、頭の悪さとか、容姿の悪さとか、劣悪な家庭環境とか、今後斜陽になるかもしれない日本経済とか、醜悪な大人の嫉妬心、傲慢、政治ゲームも含まれます。



そして、まず、子供に対して大人がやるべきなのは、大人の世界の真実を、子供に見せることです。

そのとき、注意しなければならないのは、必ず、次の二つをセットで見せることです。



●大人の世界の汚い現実を見せる

●その汚さの中に浮かび上がる、美しい真実を見せる。



このとき、次のようなポイントを意識する必要があります。



●子供は、真実を知りたがっている。

●子供は、欺瞞のある大人と、真に誠実な大人の違いを感じ取る。

●子供は、子供用の回答ではなく、大人用の回答を知りたがっている。



たとえば、小学生の女の子は、大人と同じお化粧をしたがります。

いかにも子供用のデザインの携帯電話ではなく、大人用の携帯電話を欲しがります。

子供は、大人の世界を味わいたいという欲求を持っています。



なので、最初に、「大多数の大人は、かなり子供だ」という事実を、

こどもにばらしてしまってはどうでしょうか。



たとえば、大人も、仲直りしなきゃいけないのに、仲直りできないことはたくさんあります。

食べちゃいけないのに、ずるずるとおやつを食べて、太ってしまう大人もたくさんいます。

勉強しなきゃいけないのに、ずるずると自堕落に漫画本を読んでいることもあります。

自分の立場や利益を守るために、欺瞞に満ちたことをたくさん言っています。

将来味方になってくれるだろうという見返りを期待して、打算的に人助けをしたりします。

つまらない仕事を、金のために我慢してやることもたくさんあります。

理屈ばかり立派で、ろくに価値を生み出さないこともよくあります。

それらは、特別にダメな大人というわけではなく、

お父さんも、お母さんも、お祖父ちゃんも、お婆ちゃんも、

教科書に出てくるエライ人たちも、学校の先生も、みんな、

多かれ少なかれ、そういうダメなところのある人間です。



しかし、どうしょうもなく利己的で傲慢ないやらしい大人が、

ちょっとした場面で、何の見返りもないのに、他の人の仕事を誠心誠意手伝ってあげたりするのです。

偽善的なことばかり言っている人間のクズのような大人が、ある瞬間、真実を素直に認めるのです。

高い年収とストックオプションをえげつなく要求し、金のためにしか動かなそうな守銭奴エンジニアが、

いざというときに、利益も打算も抜きに、純粋に最高の仕事をするために、徹夜して頑張るのです。

いつも人を騙し、出し抜いて、自分だけおいしいところを持っていこうとする大人が、

あるとき、騙されてしまった人たちのために、見返りもなしに立ち上がることがあるのです。



結局、人間という生き物は、利己性と利他性の両方の欲求を持っていて、

人々のその両方の欲求が複雑に絡み合って、この社会ができているのです。



だから、ほとんどの大人は、金や自分の汚い欲望のために仕事をしますが、

同時に、自分の中の美しい気持ちにも動かされて仕事をしているのです。

だから、その仕事を、金のためにやっている、というのは、たいてい正しいけれども、

金「だけ」のためにやっているというのは、たいていは正しくないのです。

大人は嘘つきで、汚くて、タテマエを言う、というのは正しいけれども、

ウソばかりついていて、美しいところがなくって、ホンネを言うことがない、

というのは、間違いなのです。



大人も、子供と同じように、自分の中の喜怒哀楽と利害の複雑な感情に突き動かされて

打算と悪意と善意に基づいて行動しているのだ、という単純な現実を、

まず、子供にばらしてしまうべきだと思うのです。



そして、その上で、その複雑な欲望と感情に突き動かされて、現実と格闘するときに、

具体的な知識やスキルが必要になってくるのだ、という世界観を提示してあげるのです。



平等なんて嘘っぱちで、結局は、能力のある人間が、オイシイ役回りを持っていってしまうこと。

しかし、平等で公平にする努力をしないと、会社組織が上手く回らないという側面もあること。

能力のある人間が評価されるとは、限らず、努力が報われないこともたくさんあること。

しかし、努力せずに、オイシイ役回りや報酬が得られることはあまりないこと。

公務員になったとたんに、結婚を迫られて鬱になったこと。

年収が低く、ブサメンなので、誰にも相手にされず、結婚もできない人たちがいること。

子供の頃、スポーツ万能で、クラスのヒーローだった男の子が、大人になったら、

安い年収で、軽く扱われ、冴えない暮らしをしていること。

勉強はできなくても、お花屋さんを経営して、成功した女の子のこと。

でも、それは、いくつかの偶然と、彼女の才能によるもので、

誰でも努力すれば、彼女と同じ成功を手に入れられるわけじゃないこと。

その彼女が、雇った経理の人に騙されて、資金を横領されて泣いていたこと。



そして、それらを、子供が今学んでいる、具体的な学習と関連づけて話すのです。

いくら電卓やコンピュータがあっても、基礎的な算数や数学の能力が高くないと、

経理の人のゴマカシを見抜けず、酷い目に会うこと。

そもそも、面白い仕事は、個人だけではできず、複数の人間がチームを組んで、プロジェクトで

やること。

たいていのプロジェクトは、予算を通してマネージメントされていること。

基本的な計算が遅いと、企画会議の議論で置いてけぼりにされてしまうこと。

仕事によっては、最新情報は、英語でしか得られないこともよくあること。

現代文の試験で正解を出す能力と、仕事のドキュメント内容を的確に把握する能力は、

かなり共通していること。



そして、結局のところ、大人の仕事というのは、子供の遊びと本質的には同じところがあるのだということを

教えてあげるべきです。



3億円あっても楽しくなれない理由は、子供が知っている

子供の頃、積み木を使って、自分の思うさま構造物を作り、面白い遊び方を仲間に提案し、みんなで盛り上がることの、なんと楽しかったことか。

大人の喜びも、本質的には、これと何ら変わらない。子供が積み木や砂山やトンネルを作るような無邪気さで、気の向くまま、思うさま、縦横無尽に企画を作り、構想をまとめ上げて、あちこちのキーパーソンを説得し、根回しをしまくって組織の意思決定メカニズムを操作し、利害関係を調整し、プロジェクトを推進し、それを世の中で実現していくこと。

それらを、気の合う仲間たちと力を合わせてやる楽しさ。仲間たちと一喜一憂し、喜びと悲しみと怒りと高揚を分かち合うこと。



そして、子供の砂場での遊びで、人の砂山を壊して喜ぶようなイヤなヤツがいたり、

裏で手を組んで仲間はずれにしたりするような、汚い政治ゲームがあるように、

あるいは、友達に嫌われないようにしたり、影響力のある子にへつらったりするように、

大人も同じことをするのだ、ということを、全部、ばらしてしまうのです。



そして、その上で、IT化やグローバリズムと、人々の欲望や思惑が絡み合って、

世界がどの方向へ進んでいくのかを、子供にも分かるように、描き出してあげるのです。



その上で、次第に明らかになっていったり、意図的に育て上げていく、自分の強みと弱みに基づいて、

社会における自分の居場所を見つけていくのだということを意識しながら、

さまざまな自分の人生ビジョンのパターンを思い描くのです。

リアルに、現実的に、しかし、どんなに可能性は低くとも、ぎりぎりいっぱいの彼方まで、希望を膨らませて。



そして、どのようなパターンになるにしろ、

基礎的な算数、国語、英語、社会、科学の能力は、決定的に重要だと言うことを、

リアルに感じさせるのです。

将来、自分が、それらの能力を心の底から欲望するだろうと言うことを、直感させるのです。



それが、現実の人々のドロドロした欲望と、思惑と、駆け引きと、成功への道のりの中で、

あるいは、失敗への転落の中で、

具体的に、どのような役にたつ知識やスキルであるのかを、描き出すのです。



そして、人間は、気が変わりやすい生き物で、何事も予定通りなんか行かず、

後悔ばかりしている生き物だということを、教えてあげるのです。

今は、コンピュータなんて、興味がなくても、

将来気が変わって、世界を変えるようなすごいシステムを作りたくなることもあるかもしれないということ。

そのために、いま、数学を学ぶことを捨ててしまうと、

将来、何度も、何度も、何度も、後悔のため息をつくことになるかもしれないということ。



そういうことも含めて、話します。



なぜなら、国語・算数・理科・社会・英語のような、

教科書の上の無味乾燥な知識は、

圧倒的なリアリティーを持つ世の中の動かしがたい現実と、

それを形成している、人々のドロドロとした欲望や思惑と結びついたとき、

血肉となり、骨髄まで染み渡り、人生を切り開く力となるからです。



もちろん、これは、長い時間のかかる、根気のいる作業です。

子供は、集中力がありませんから、日常生活の中で、ちょっとしたキッカケを見つけては、

少しずつ、少しずつ、話していきます。



でも、たぶん、それをやることでできあがるのは、子供の人生の経営戦略の基礎だけではありません。

気がついたら、教えている大人自身の人生の経営戦略も、ずっと良いものに変わっていくと思うのです。
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3億円あっても楽しくなれないのは、楽しさというものの本質が、子供の遊びの中にしかないからだ。



ロト6で3億2000万円を当てた男の悲劇

 株で行き詰まり、女性ともうまくいかず、仕事の悩みも抱えていたこの冬には、鬱に近い精神状態に。気づくと、部屋で50万円分の1万円札を半分に切って鶴を折り、千羽鶴ならぬ百羽鶴を作っていたという。「お札が単なる紙に見えた」と振り返る。

 「でも、今は最初に当たったのが、1億8000万円だったと思うことにしています」



大人になっても、人生の楽しさの本質は、無心に遊ぶ子供となんら変わらない。

大人も、楽しくなるためには、子供のように、砂場や積み木や遊び友達が必要なのだ。



しかし、3億円では、砂場も積み木も遊び友達も買えない。

子供用の砂場や積み木は買えるかも知れないが、大人用の砂場や積み木は3億円程度では、手に入れられないのである。



子供たちが、砂場の世界を心から楽しめるのは、それが、子供にとって世界の全てだからだ。

その「全世界」を思うさま駆け回り、気の向くまま、仲間たちと戯れながら、思いつくまま砂山やトンネルや川や池を創造し、心のおもねるまま、世界を創造し、破壊ししていく。それは、一点の曇りもなく、心の底から楽しいことだ。



しかし、それが全世界ではないことを知ってしまった、大人たちの目には、それが、安っぽい子供用の玩具にしか見えない。それは、知識を持たない子供にとっては、本物の世界なのだが、知識を持った大人にとっては、それは、まがいものでしかないのだ。

つまり、大人は、知識の実を食べたために楽園を追放されてしまったアダムとイブなのだ。子供の砂場を永遠に追放されてしまった哀しい存在なのだ。



だから、大人たちは、砂場の外に、大人たちの砂場を見つけなければならない。

そして、荒野をさまよった大人たちが、ついに見つけ出す砂場というのは、多くの場合、社会なのだ。大人が最後に見いだす積み木とは、組織なのだ。

営利企業であれ、NGOのような非営利組織であれ、養護施設であれ、小さな山村であれ、家族であれ、国家であれ、世界政府であれ。



子供が砂山や積み木を積み上げ、無心に、自分が思いつくまま、気の向くまま、作りたいものを自在に作っていくのが心から楽しいように、大人も、思うさま、組織を動かし、社会の中で、自分がこうあって欲しいというものを実現することこそが、真に至福の幸せなのだ。



子供の頃、積み木を使って、自分の思うさま構造物を作り、面白い遊び方を仲間に提案し、みんなで盛り上がることの、なんと楽しかったことか。



大人の喜びも、本質的には、これと何ら変わらない。子供が積み木や砂山やトンネルを作るような無邪気さで、気の向くまま、思うさま、縦横無尽に企画を作り、構想をまとめ上げて、あちこちのキーパーソンを説得し、根回しをしまくって組織の意思決定メカニズムを操作し、利害関係を調整し、プロジェクトを推進し、それを世の中で実現していくこと。

それらを、気の合う仲間たちと力を合わせてやる楽しさ。仲間たちと一喜一憂し、喜びと悲しみと怒りと高揚を分かち合うこと。



そうしたことは、3億円では、買えないのである。

3億円ぐらいじゃ、めちゃくちゃショボイ会社しか買えないし、たとえ会社を買ったり作ったりしても、その会社を経営する能力が無ければ、楽しむどころか、会社は行き詰まり、倒産してしまうだろう。

そうならないように、優秀な経営者を雇って経営させたとしたら、自分自身は、楽しくも何ともない。

それは、砂場を買って、自分の代わりに他人にその砂場で遊んでもらうようなものだ。トイレに行きたいけど、自分がいけないから、代わりに他人に行ってもらうような、本末転倒意味不明の行為だ。



自分が子供の時、砂場で仲間たちと無心に遊んでいるとき、何が楽しかったのかを思い出せば、人生を楽しくするために必要なことが見えてくるはずだ。



自分が仲間たちに、自分のやりたい遊びや遊び方を提案し、それが受け入れられたとき楽しかったでしょう?

自分の納得のいくルールで遊べるのが気持ちよかったでしょう?

自分の思い通りの形に仕上げていくのが楽しかったでしょう?

仲間たちに、自分のアイデアが認められ、尊敬されるのは、気分が良かったでしょう?

みんなに、楽しいヤツだと思われて、たくさんの友達が集まってくるのが幸せだったでしょう?

仲間たちと、力を合わせて作り上げたものが誇らしかったでしょう?



大人になっても、これらは、本質的に、なにも変わらないのです。



だから、人生を楽しむのに第一に必要なのは、3億円なんかじゃなく、自分の思いを企画や構想へと練り上げていく力です。人々の気持ちを動かすことの出来る、プレゼン能力です。組織に働きかけ、組織の意思決定メカニズムを操作する、政治力です。自分が思いついた遊びに乗ってくれる、仲間たちです。



そういう、砂場で無心に遊ぶ子供のように人生を楽しむ能力を身につければ、結局のところ、十分な収入も得られ、生活に困ることもなく、そこそこの贅沢もでき、お金なんかにさほど執着しなくなるのです。



宝くじなんて、買いに行く暇があったら、自分の企画能力や政治能力を磨き、人脈を築き上げた方が、よっぽど楽しい人生を送れるでしょう。



もちろん、子供の頃、砂場で、外したことばかりやってみんなに嫌われたり、あるいは、積み木も砂山もちっとも楽しめなかった子供がいたように、大人になっても、やはり砂場でうまく遊べない大人というのはいます。



そういう人は、是非とも宝くじを当てましょう。そして、当たった3億円で、お金目当ての女の人と結婚し、愛のない家庭を築き、「この家がぼくの砂場なんだ。砂場なんだ。砂場なんだ。」と毎日となえながら暮らすというのも、選択の一つかも知れません。



でも、できれば、脇役でもいいから、砂場で無邪気に遊ぶ「元」子供たちの仲間に入れてもらって、一緒に遊んだ方が楽しいと思うよ。













勉強はしなくてもいい。勉強が嫌いな人は、我慢して勉強する必要はない。勉強したい人だけ勉強すればいい。ただ、勉強するとどんな楽しいことがあるのかだけは、知っておくべきだし、教えておくべきだ。

あと、勉強ができる人には、我慢して勉強したから勉強ができるのではなく、単に勉強自体が楽しいから勉強しているだけの人も多いので、べつにエライとかじゃないし、尊敬されるようなことじゃない。テレビゲームが好きでテレビゲームをやってるのとたいして変わらんのじゃないかと思う。

で、ぼくが日々実感している、「勉強することによる具体的で直接的で切実なメリット」は次の4つ。

(1)もっと楽しく遊べる

(2)もっと楽しく仕事ができる

(3)もっとすばらしい友達をたくさんつれる

(4)騙されてひどい目に合いにくくなる

まず、(1)の遊び。基礎的な筋力や体力があると、幅広いスポーツをがんがん楽しめるように、基礎的な学力があると、さまざまな知的な遊びにがんがん挑戦できる。たとえば、英語ができれば、無菌パックされた加工食品みたいなパック旅行なんかじゃなく、リュックサック一つで世界中の安宿を、現地の人々に混じって放浪する、とれたて生野菜丸かじりのような旅行が楽しめる。現地人の生活空間に入り込めるから、まったくの異空間、異質な空気、別世界に入り込んじゃうかんじで、濃密な異文化リアリティが、ちょー面白いぜェ。語学力が十分にあれば、人生論や価値観みたいな、自分の生き方を考え直しちゃうような深ーーーい話題にまでももってけたりするし。ときには、価値観の違いをリアルに感じすぎて、それがその場所のキッチンの匂いや現地人の体臭とミックスされて、目眩が起きそうになるほどだ。歴史や古典に強ければ、京都・奈良の旅は何十倍も楽しめる。現在のその苔むした古寺に行き着くまでの人間の喜怒哀楽と思惑のドラマが走馬灯のようによぎって、古刹の前で涙が出てくるね。科学に強ければ、読める小説の種類だって、ぜんぜん違ってくるし、感動して泣ける映画の数ずっと多くなるし、というか、同じマンガでもアニメでも映画でも、ずううううと多角的な角度から、ずっっっっと深く深く深く味わえる。コンタクトのジョディーフォスターのセリフも、宇宙の生成から消滅までの壮大なイメージがあると、いっそう心に染みるぜー。株式投資にしたって、数字に強ければ、財務諸表をがんがん分析し、企業戦略と世の中の動向、そして自分の生活感覚をミックスさせてリアルに楽しめる血湧き肉躍る最高のゲームになる。

それから、(2)の仕事については、会社でもNPOでも、クリエイティブで面白いわくわくする仕事というのは、たいてい「能力」の高い人間に独占されているのが現実。「能力」のない人間は、たいてい下っぱで、ものごとが決まったあとに、決められたとおりに命令される側で、単調でつまらなくてシンドイ仕事が多く、どうでもいい人間だと思われ、ぞんざいに扱われる。乙一の言葉を借りるなら、「なんというか、エラくないのだ。」

そして、その「能力」とやらは、英語を使いこなしていること、数字に強いこと、法律に強いこと、社会のしくみをよく分かっていることなどの基礎的な力が前提となってる。プロジェクトの収支シートを見ながら次にどのような企画展開にするかの議論とか、すごいスピードで暗算で試算できないと、ぜんぜん議論についていけない。アイデアを出すどころじゃない。単純な足し算、引き算、掛け算のスピードは、子供のうちに徹底的に高速化しておくに限る。逆に、それが高速でできれば、稲妻と嵐の中を縦横無尽に疾走するような最高の高揚感が味わえる。

科学や歴史が必要かどうかは分野による。必要でない仕事も多い。ただ、できないとそれらが必要な仕事からは締め出される。古典や歴史の知識も、お客さんに教養人が多いとかの場合は必要だけど、それ以外はいらない。なぜか日本にはあまり教養人はいないので、教養はたいした問題にはならない。ただ、ビジネスなどで西欧人エリートとのつきあいがあると、教養の重要度は跳ね上がる。なぜだかは知らない。単に経験的にそう。

そして(3)の友達。能力があれば、友達が困っているとき助けてあげられる。能力がないと、かわいそうだと思いながら、見捨てるしかない。というか、自分の分ですら、夜遅くまでやっても終わらずヘロヘロになってるから、友達を助けるどころか、自分が助けて欲しいぐらいだ。たくさんの友達に切実に必要とされ、尊敬され、心から感謝されるというのは、気分がいいし、生きている実感がわくし、からだのなかから力がみなぎってくる。逆に、友達から必要とされず、軽視され、単なる遊び相手だと思われ、口先だけの感謝の言葉しかもらえないというのは、なんていうか気持ちがやせ細る。生きている実感がわかなくなってくる。生きる喜びが薄くなる。人間は、群れで生きる動物だから、その本能を満たしてやることは、動物本能として必要なんだろう。

それと、英語さえできれば世界中のいろんな人と友達になれると言うのは、幻想だ。基本的な教養がないとすごく友達の範囲も会話の範囲も限定されちゃう。旅行先で出会う欧米の人間は、基本的な教養が「共通言語」になっちゃってることがよくあるんだよね。平安時代の貴族のモテアイテムが中国の古典だったのに似てるかな?*2

先日も、オイラの彼女と二人でとある発展途上国をバックパッキングしてたんだけど、そのとき山奥で夕食のテーブルを共にしたアメリカ人の中年夫婦と楽しく盛り上がった。会話の中で、「それってダークマターみたいだね」とか「でもさー、歴史は権力者の都合のように書かれてるだけだから(フーコーだっけ?)」とか、奥さんに文句を言われて「いや、熱力学の第二法則に従ってるだけだし」とか言い訳したり(部屋を散らかす人なんでしょうね)、「じゃあ、日本でも神の殺害は起こったというの?(ニーチェ、もののけ姫のエボシなんかもそれだろな)」とか、「どこで食べるかは決まってるけど何を食べるかは決まってない (量子力学の不確定性原理のパロディー)」とか、輪廻転生とカーストの話とか、とある大手企業の粉飾決算の手口を笑い飛ばしたりとか、「あの政治家、(フロイトの)肛門期的性格だよなー」とか「うへ、それじゃビッグブラザーじゃん(オーウェルの1984)」とか、「熱帯雨林ではバクテリアの代謝が活発だから二酸化炭素を吸収するというのは辻褄が合わねえべ。」とか「これはデブのジーンズ(genes)を持った人用のジーンズ(ズボン)なんだ」とかいうジョークやネタが、先方からポンポンでてきた。

最後に、(4)の騙されないため。徒然草じゃないけど、「多くはみな虚言なり」というのは、いまも昔も変わらないんだ。そして、ホンモノの教養があると虚言に惑わされなくなる。たとえば、世の中に出回っているサプリメントのうち、9割か、もっと多くは、合法的な詐欺なんだけど、どれがインチキで、どれがホンモノか、どうやって確かめる? その道の権威は、研究費を企業にもらってるから、企業のスポークスマンだし。で、自分で調べていけば分かるけど、たとえばαリポ酸がほんとに効きそうなのかどうか自分で判断するためには、かなりの基礎学力が必要だぜ。ミトコンドリアの中の分子化学的プロセスの話とか出てくるし。クエン酸回路や電子伝達系しくみのどこでどう働くのかとか、その証拠はどのように確認されてるのかとか、ミトコンドリアで発生した活性酸素がほんとに核膜の中まで届くのかとか、活性酸素にもいろんな種類のものがあるけどそのうちのどれにどう働くのかとか。あるあるを見て理解したような気になることはできても、あるあるの言っていることのどの部分がどこまで本当かを「確かめる」ことはできない。いい情報も多いけど、インチキ情報も多いんだよ、テレビは。ダイエット食品や若返りと称した合法的詐欺も繁盛してるよな。ダイエット産業は「リピーター」によって成り立っているという構造があるんだよ。金融商品なんて、もう、合法的詐欺のオンパレードだ。それらインチキ商品をかき分けて、ほんとうにオイシイ金融商品どうやって購入するのか? 日本語の情報源だけだと、ぜんぜんだめで、やはり相当な英語力が必要だ。ためしに、日本語と英語で同じ情報をGoogleしてみればもう、歴然よ。そして英語力だけじゃなく、多くの金融概念が必要で、それらのいくつかは数字や数学っぽい考え方にアレルギーがあると、きちんとは理解できない。つまり、教養がなくても、情報はたくさん得られるけど、どの情報が虚言でどの情報がホンモノなのかを、「確かめる」ことができない。

以上が勉強することのメリットだけど、勉強すべきかどうか、なにをどのくらい勉強すべきかは、もちろん人によって異なる。ちょー美人で、ちょー大金持ちで、誰にでも好かれるキャラの女の子なら、普通の人ほど勉強しなくてもよいかもね。ただ、そうであっても、勉強したほうが、もっと楽しく遊べるし、もっとすばらしい友達がたくさんできるし、もっといい経験をもっとたくさんすることができるかもしらんぜ。。。とオイラは思うけど?

。。。とは言ったものの、これらは全部屁理屈で、現実には、先生の魅力次第なのよ。教える先生が、勉強のホントウの面白さがよく分かっている、人間的にもめっちゃ魅力ある子供以上に子供っぽい先生なら、その魅力は、いくらでも子供たちに伝えることができる。問題は、そういう勉強の楽しさが全身からあふれてくるような、勉強の面白さを子供たちに伝えるために労をいとまない先生が、めっっっっっっっっっったにいないということだね。だから、ここで書いたことは、みんな机上の空論で、そういう先生自体が、直接子供に語りかけないかぎり、その女の子の納得のいく答えにはならないと思う。というか、もっと深刻な問題は、そういう勉強のおもしろさに対する感受性のない子供、生まれつき菅原道真に忘れられちゃってるような子供がいて、そういう子は、たぶん、別の人生を目指すべきで、無理に勉強すると、かえって不幸になるから、そういう子にまで「勉強しなければならない」とかいうのは、ほとんど犯罪的だと思う。勉強なんてできなくったって、すばらしい人生を送る方法はいくらでもあるんだから。勉強することの最大のメリットは、勉強しなくても楽しく生きていけるということを知ることができる、ということかもしれない。

posted by tuto at 03:04| 東京 🌁| Comment(0) | さとし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月29日

いつか子供に仕事の話をするとき


夢ってのは呪いと同じなんだよ
呪いを解くには夢を叶えなきゃならない
だが、夢を叶えられなかった人間は
ずっと呪われたままなんだよ













厄介なのは立ち直るきっかけとか、前に進むきっかけをつかめないこと
一人で家でごろごろしてたら、視野が狭くなって気づけるものにも気付けないし、何もかもいつのまにかなくしてしまう
気をつけろよ














このエッセイは、ある高校の講演依頼を受けて準備したものである。その高校のお偉いさん方が反対して、結局私の講演はキャンセルされたのだが。

こんど高校で講演することになったと言ったら、ぼくの友達はみんな興味を持って尋ねてきた。高校生に向かってどんな話をするんだい。だからぼくは逆に聞き返したんだ。君が高校生の時に、誰かがこのことを教えていてくれたらなぁ、と思うことってあるかい。そう聞くと、みんな自分のことを語りはじめたんだけれど、だいたい誰も同じようなことを思っていたんだ。そこで今日は、ぼくらがみんな、誰かに教えてもらいたかったなあと思っていることを話そうと思う。

まず、高校にいるうちは知らなくてもいいことから始めよう。人生で何を為すかってことだ。大人はいつも、君は人生において何を成し遂げたいかって聞くものだから、答えを考えておかなくちゃいけないなんて思っているんじゃないかな。実は大人がこの質問をするのは、単に会話を始めるためなんだ。君がどんな人間かを知りたくて、そしてこの質問をすればとにかく君は何かを話し出すだろう。潮溜りのヤドカリを突っついてどんな反応をするか見てみるのと同じさ。

ぼくが高校生に戻ってこの質問を受けたとしたら、まず何が可能かを学ぶことだと答えるだろう。人生を賭ける仕事を選ぶのに急ぐ必要なんてない。必要なのは、自分は何が好きなのかを発見することだ。上手くできるようになりたいなら、そのことが好きじゃなくちゃだめだからね。

何が好きかを決めるのなんて一番簡単なことだと思うかもしれない。でもやってみると、それはとても難しい。理由のひとつは、仕事で実際にどういうことをしているかっていうはっきりしたイメージを持つことが、多くの仕事では難しいからだ。例えば医者という仕事の実際は、テレビで描かれるようなものじゃない。もっとも医者の場合は、病院でボランティアをすれば本物の医者を見る機会が得られるけれどね [1]。

それどころか、今決して学ぶことが出来ない仕事っていうのもある。今はまだ誰もやっていないような仕事だ。ぼくがこれまでの10年間でやってきた仕事のほとんどは、ぼくが高校生の時には存在していなかった。世界はどんどん変化しているし、変化のスピードも速くなってる。こんな世界では、決まった計画を持つことはあまりうまくない。

それでも毎年5月になると、全国津々浦々の卒業式で決まりきった演説が聞かれることになる。テーマはこうだ。「夢をあきらめるな。」ぼくはその真意を知っているけれど、この表現は良いものじゃない。だって、早いうちに計画を立ててそれに縛られることを暗示しているからね。コンピュータの世界では、これに名前までついている。「早すぎる最適化」というんだ。別の言葉で言い替えると「大失敗」ということだ。演説ではもっと単純にこう言うべきだろうね。「あきらめるな。」

この言葉の真意は、士気を失うなってことだ。他の人に出来ることを自分は出来ないと思っちゃだめだ。それに、自分の可能性を過小評価してもいけない。すごいことを成し遂げた人を見て、自分とは人種が違うと思うかもしれない。しかも伝記ではそういう幻想はますます誇張される。伝記を書く人っていうのは対象となる人物にどうしても畏敬の念を抱くものだし、物語の結末がわかっているからそこに至るまでの人生のできごとをまるで運命に導かれたように、内なる天才が徐々に現れて来るように描きたくなるんだ。実際のところ、もし16歳のシェークスピアやアインシュタインが君と同級生だったとしたら、たぶん彼らは才能を現しているだろうけれど、それ以外は君の他の友達とさほど変わらないはずだとぼくは思う。

こう考えるのは、おっかないことだ。彼らがぼくらと同じなんだとしたら、彼らはすごいことを成し遂げるためにものすごい努力をしたってことになる。そう思うのはこわいから、ぼくらは天才というものを信じたがるんだ。ぼくらが怠けている言い訳ができるからね。もし彼らが、魔法のシェークスピア属性やアインシュタイン属性のせいで素晴らしいことを成し遂げたんだとすれば、ぼくらが同じくらいすごいことをできなくてもぼくらのせいじゃないことになる。

天才なんてない、って言ってるわけじゃないよ。でも、二つの理論を選ぶときに、一方は怠惰であることを正当化するものだとしたら、たぶんもう一方の理論が正しい。

ここまでで、卒業演説の「夢をあきらめるな」から、「他の誰かに出来たなら、きみにも出来る」が彫り出せた。でもこれはもっと彫り進めることができる。生まれついての能力の差というものは多少はある。過大評価されがちだけど、無くは無い。例えば背が120cmしかない人がいつかNBAでプレーしたいんだと言った時に、本当に頑張れば何でも出来るよというのは空々しく聞こえるだろう。 [2]

だから、卒業演説はこんなふうになるだろう。「きみと同じ能力を持つ誰かができることなら、きみにもできる。そして自分の能力を過小評価しちゃいけない。」でも、よくあることだけれど、真実に近付こうとするほど多くの言葉を費さなくちゃならなくなる。かっこよく決まっている、でも正しくないスローガンを、泥をかき混ぜるみたいにいじってみたわけだが、これじゃあまり良いスピーチにはならなさそうだ。それに、これじゃ何をすべきかってこともよくわからない。「きみと同じ能力」って? 自分の能力って何だろう?

風上
この問題の解法は、反対側からやってみることだ。ゴールを最初に決めてそこから逆算するんじゃなく、より良さそうな状況に向けて少しづつ前に進んでゆくんだ。成功した人の多くは実際にはそうやって成功したんだ。

卒業演説方式では、きみはまず20年後にどうなりたいかを決めて、次にそこに至るには今何をすればいい、と考える。ぼくが提案するのは逆に、将来のことは一切決めないでおいて、今ある選択肢を見て、良さそうな選択肢がより増えるものを選ぶってことだ。

時間を無駄にしてない限り、実際に何をするかってことはあまり問題じゃない。面白いと思えて、選択肢が増えるものなら何でもいい。増えた選択肢のどれを選ぶかなんて後で考えればいいんだ。

たとえば、君が大学の1年生で、数学と経済学のどっちを専攻しようかと迷っているとする。この場合はね、数学の方が選択肢がひろがるんだ。数学からはほとんどどの分野へも進むことができる。数学を専攻していたら、経済学の大学院へ進むのは簡単だろう。でも経済学を専攻して、数学の大学院へ進むのは難しい。

グライダーを考えてみるといい。グライダーはエンジンを持っていないから、風上に向かって進もうとすると高度を大きく失うことになる。着陸に適した地点よりずっと風下に行っちゃったら、打てる手はひどく限られるものになるだろう。風上にいるべきなんだ。だからぼくは「夢をあきらめるな」のかわりにこう言おう。「風上をめざせ」。

でも、どうすればいい? 数学が経済学の風上だったとして、高校生はそんなことを知っていなくちゃならないんだろうか。

もちろん知らないだろう。だから、風上を自分で見つけ出さなくちゃならない。風上を知る方法のヒントをいくつかあげよう。賢い人々と、難しい問題を探すことだ。賢い人々は自分達で固まりがちだ。そういう集団を見つけたら、たぶんそれに参加する価値はある。但し、そういう集団を見つけることは簡単じゃない。ごまかしがたくさんあるからだ。

大学生になったばかりのときには、大学のどの学部もだいたい似たように見える。教授たちはみんな手の届かない知性の壇上にいて、凡人には理解不能な論文を発表している。でもね、確かに難しい考えがいっぱい詰まっているせいで理解できないような論文もあるけれど、何か重要なことを言っているように見せかけるためにわざとわかりにくく書いてある論文だっていっぱいあるんだ。こんなふうに言うと中傷に聞こえるかもしれないけれど、これは実験的に確かめられている。有名な『ソーシャル・テクスト』事件だ。ある物理学者が、人文科学者の論文には、知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめにすぎないものがしばしばあると考えた。そこで彼はわざと知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめ論文を書き、人文科学の学術誌に投稿したら、その論文が採択されたんだ。

一番良い防御は、常に難しい問題に取り組むようにすることだ。小説を書くことは難しい。小説を読むことは簡単だ。難しいということは、不安を感じるということだ。自分が作っているものが上手くいかないかもしれないとか、自分が勉強していることが理解出来ないんじゃないかという不安を感じていないなら、それは難しくない問題だ。ドキドキするスリルがなくちゃ。

ちょっと厳しすぎる見方じゃないかって思うかい。不安を感じなくちゃダメだなんて。そうだね。でもこれはそんなに悪いことじゃない。不安を乗り越えれば歓喜が待っている。金メダルを勝ち取った人の顔は幸福に満ちているだろう。どうしてそんなに幸福なのかわかるかい。安心したからさ。

幸福になる方法がこれしかないと言っているんじゃないよ。ただ、不安の中にも、そんなに悪くないものがあるって言いたいんだ。

野望
「風上をめざせ」というのは、現実には「難しい問題に取り組め」ということだった。そして、君は今日からそれを始めることができる。ぼくも、このことに高校にいる時に気付いていたらなと思うよ。

たいていの人は、自分がやってることを上手くできるようになりたいと思う。いわゆる現実社会では、この要求はとても強い力なんだ。しかし高校では、上手くできたからっていいことはあまりない。やらされていることが偽物だからだ。ぼくが高校生だった時は、高校生であることが自分の仕事なんだって思ってた。だから、上手くやれるようになる必要があることっていうのは、学校でいい成績をあげることだと思ってた。

その時のぼくに、高校生と大人の違いは何かと聞いたなら、たぶん大人は生活のために稼がなくちゃならない、と答えていただろう。間違いだ。ほんとうの違いは、大人は自分自身に責任を持つということだ。生活費を稼ぐのはそのほんの小さな一部にすぎない。もっと大事なのは、自分自身に対して知的な責任を取ることだ。

もしもう一回高校をやりなおさせられるとしたら、ぼくは学校を昼間の仕事のようにあしらうだろう。学校でなまけるということじゃないよ。昼間の仕事のようにやる、っていうのは、それを下手にやるってことじゃない。その意味は、それによって自分を規定されないようにするってことだ。たとえば昼間の仕事としてウェイターをやっているミュージシャンは、自分をウェイターだとは思わないだろう [3]。同じように、ぼくも、自分を高校生だとは思わないだろうね。そして昼間の仕事が済めば、本当の仕事を始めるだろう。

高校時代を思い出して一番後悔することは何かって尋ねると、たいていみんな同じ答えを返す。時間を大いに無駄にしたってね。君が、今こんなことをしてて将来後悔することになるだろうなと思っているなら、きっと後悔することになるよ[4]。

これは仕方ないと言う人もいる。高校生はまだ何もきちんと出来ないからってね。ぼくはそうは思わない。高校生が退屈しているというのがその証拠だ。 8歳の子供は退屈しない。8歳の時には「ぶらつく」かわりに「遊んで」いたはずだ。やってることは同じなのにね。そして8歳の時、ぼくは退屈することがほとんど無かった。裏庭と数人の友達がいれば、一日中遊んでいることができた。

今振り返ってみれば、中学高校でこれがつまらなくなった理由は、ぼくが他の何かをする準備が出来たからだった。子供であることに飽きてきたんだ。

友達とぶらついちゃだめだなんて言ってないよ。誰ともつき合わなかったら、仕事しかしないむっつりした小さなロボットになるしかない。友達と出かけるのは、チョコレートケーキみたいなもんだ。時々食べるからおいしい。毎食チョコレートケーキを食べていたら、たとえどんなに好きだとしても、3食目には吐き気がしてくるだろう。高校で感じる不安感はまさにそれ、精神的な吐き気なんだ [5]。

良い成績を取る以上に何かしなくちゃならないと聞いたら、『課外活動』のことだと思うかもしれない。でも君はもう、ほとんどの『課外活動』がどんなにばかげたものかを知っているよね。チャリティの寄付集めは称賛されるべきことかもしれないが、それは難しいことじゃない。何かを成し遂げるってことじゃないからだ。何かを成し遂げるっていうのは、たとえば上手く文章を書けるようになるとか、コンピュータをプログラムできるようになるとか、工業化以前の社会の生活が実際どんなものだったかを知るとか、モデルを使って人間の顔を書くことを学ぶとか、そういうことだ。この手の活動は、大学入試願書に一行で書けるようなものにはなかなかならない。

堕落
大学に入ることを人生の目標にするのは危険なことだ。大学に入るために自分の能力を見せなくちゃならない相手っていうのは、概して鋭いセンスを欠いている。多くの大学では、きみの合否を決めるのは教授じゃなくて入学管理者[訳註1]で、彼らは全然賢くない。知的社会の中では彼らは下士官だ。きみがどれだけ賢いかなんて彼らに分かりはしない。私立の進学校が存在することが、その証明になっている。

入試に受かる見込みが上がらないのに多額の金を学校に払う親はほとんどいない。私立の進学校は、入試に受かるための学校であることを明示している。でも立ち止まって考えてみたまえ。同じくらいの子供が、ただ地域の公立高校だけに行くより私立の進学校に行った方が入試に受かりやすくなるってことは、私立の進学校は入試のプロセスをハックできるってことだ [6]。

君達の多くは、今人生でやるべきことは大学入試に受かるようになることだと思っているだろうね。でもそれは、自分の人生を空っぽのプロセス、それを堕落させるためだけで一つの業界が存在しているほどのプロセスに押し込めていることになる。シニカルになるのも無理ないよ。君が感じている不快感は、リアリティTVのプロデューサーやタバコ会社の重役が感じているものと同種のものだ。君の場合は給料をもらっているわけでもないのにね。

じゃあどうしようかね。ひとつ、やっちゃいけないのは反抗だ。ぼくは反抗した。それは間違いだった。ぼくは、自分達の置かれた状況をはっきり認識していなかったけど、なにか臭いものを感じていた。だから全部投げ出したんだ。世界がクソなら、どうなろうと知ったことか、ってね。

教師の一人が試験対策のアンチョコを使っているのを見つけた時に、ぼくはこれでおあいこだと思った。そんな授業でいい点数をもらってどんな意味があるっていうんだ。

今、振り返ってみれば、ぼくは馬鹿だったと思うよ。これはまるで、サッカーで相手にファウルされて、おまえ反則しただろ、ルール違反だ!と怒ってグランドから立ち去るようなものだ。反則はどうしたって起きる。そうなった時に、冷静さを失わないことが重要だ。ただゲームを続けるんだ。

きみをこんな状況に押し込めたのは、社会がきみに反則したからだ。そう、きみが思っているように、授業で習うほとんどのことはクソだ。そう、きみが思っているように、大学入試は茶番だ。でも、反則の多くと同じように、悪意があってそうなったわけじゃない [7]。だから、ただゲームを続けるんだ。

反抗は服従と同じくらいばかげたことだ。どちらにしてもきみは他人に言われたことに縛られている。一番良いのは、直角の方向に足を踏み出すことだ。言われたからただやる、でもなく、言われたからやらない、でもない。かわりに、学校を昼間の仕事にするんだ。昼間の仕事だと考えれば学校なんて楽勝だよ。3時には終わるんだし、なんなら自分のやりたいことを内職しててもいい。

好奇心
じゃあ、本当の仕事は何になるんだろう。きみがモーツァルトでない限り、やるべきことはまずそれを探し出すことだ。やりがいのあることって何だろう。すごい発想をする人達はどこにいるだろう。そして一番重要なこと:自分は何に興味があるだろう。「適性」という単語はちょっと誤解を招きやすい。元から備わった性質のように思われるからね。最も強い種類の適性とは、ある種の問題に対するどん欲な興味だけれど、そういう興味は後天的に獲得するものが多い。

この考えの変化したものは、現代の文化においては「熱意」という言葉で呼ばれている。最近、ウェイター募集の広告で「サービスに対する熱意」を持った人を求めている、というのを見た。本物の熱意は、ウェイターくらいじゃおさまらないものだ。それに熱意という単語も良くない。むしろそれは好奇心と呼ぶのがいい。

子供は好奇心旺盛だ。ただ、ぼくがここで言っている好奇心は子供のとはちょっと違う。子供の好奇心は広くて浅い。ランダムに色々なことについて「どうして?」と尋ねる。多くの人は、大人になるまでにこの好奇心が全部渇いてしまう。これは仕方無いことだ。だって何についても「なぜ?」と尋ねていたら何もできないからね。でも野心を持つ大人では、好奇心は全部渇いてしまうのではなく、狭く深くなってゆくんだ。泥の庭が井戸になるんだ。

好奇心を持っていると、努力が遊びになる。アインシュタインにとっては、相対性理論は試験のために勉強しなくちゃならない難しい式の詰まった本ではなかったはずだ。それは解き明かしたい神秘に見えていただろう。だからたぶん、彼にとって相対性理論を見出すことは、今の学生が授業でそれを学ぶことほど、努力とは感じられなかったんじゃないかな。

学校で植え付けられる幻想の一番危険なものは、素晴らしいことを為すには自分に厳しくなければならないというものだ。多くの科目はあまりに退屈に教えられるから、自律心が無いと全部に出席することなんてできやしない。大学に入ってすぐに、ぼくはヴィドゲンシュタインの言葉を読んでびっくりした。彼は自律心が無くて、たかが一杯のコーヒーであろうと欲しくなったら我慢することができなかったというんだ。

今、ぼくは素晴らしい仕事をした人を何人も知っているけれど、みんな同じなんだ。自分を律するということをほとんどしない。延ばせることはぐずぐず先に延ばすし、興味のないことをやらせようとしても全くの無駄だ。そのうちの一人ときたら、自分の結婚式に出席してくれた人へのお礼の手紙を出してない。結婚して4年経つのに。もう一人は、メールボックスに26000通のメールをため込んでる。

自律心が全くのゼロだったら困るよ。走りに行こうかなと思うくらいの自律心は必要だ。ぼくも時々、走るのが面倒だなあと思うけれど、一度走り出せばあとは楽しめる。そして何日か走らないと具合が悪くなる。素晴らしい仕事をする人にとっても同じことなんだ。仕事をしてないと具合が悪くなるし、仕事を始めるだけの自律心は持っている。ひとたび仕事を始めれば、興味の方に圧倒されて、自律心は必要なくなるんだ。

シェークスピアは偉大な文学を産み出そうと歯を食いしばって勤勉に努力したって思うかい。そんなわけないさ。きっと楽しんでいたはずだ。だから素晴らしい作品が書けたんだ。

いい仕事をしたいなら、必要なのは見込みのある問題に対する大きな好奇心だ。アインシュタインにとっての一番大事な瞬間は、マクスウェルの方程式を眺めて、これはどうなっているんだろうと自問したところにあった。

生産的な問題に照準を合わせるのには長い時間がかかる。本当の問題は何なのかを見つけるだけで何年もかかるかもしれないからね。極端な例を言えば、たとえば数学だ。数学を嫌う人は多い。でも学校で「数学」の名前でやらされていたことは、実際に数学者がやっていることとはほど遠いんだ。

偉大な数学者のG. H. ハーディは、高校の時は数学が嫌いだったと言っている。ただ他の生徒より高い点数をとれたから選択しただけだったと。後になって、彼は数学が面白いということに気づいた。質問に正しく答えることのかわりに、自分で問題を見つけるようになってからね。

ぼくの友達の一人は、学校で提出するレポートに苦しんでいると母親が「それを楽しむ方法を見付ければいいのよ」っていうんだとぼやいていた。でもそれが、やるべきことなんだ。世界を面白くする問いを見つけ出すんだ。素晴らしい仕事をした人は、ぼくらと違った世界を見ていたわけじゃない。ただこの世界の中の、ほんのちょっとした、でも不思議なことがらに気づいただけなんだ。

これは学問だけの話じゃない。「車はどうして贅沢品じゃなきゃいけないんだ? 車が日用品になったらどうなるだろう?」これがヘンリー・フォードの発した偉大な問いだった。フランツ・ベッケンバウアー[訳註2]の問いはこうだった。「どうしてみんな自分のポジションに留まってなくちゃならないんだ? ディフェンダーがシュートしたっていいじゃないか。」

現在
偉大な問いを発するのに何年もかかるとしたら、いま、16歳の君は何をしたらいいだろう。質問を見つける準備をするんだ。偉大な問いは突然現れるんじゃない。徐々に頭の中に結晶してくるんだ。それを結晶させるのは経験だ。だから、偉大な問いを見つけるのに探し回ってもだめだ。「ぼくができる偉大な発見は何だろう」なんてぼんやり考えててもだめだ。そんな質問に答えはない。答えがあるなら既に見つけてるはずだからね。

大きなアイディアが頭に浮かぶようになるには、大きなアイディアを追い求めるんじゃなく、自分が興味を持つことにたくさんの時間を費すことだ。そして頭を柔軟に開いておいて、いつでも大きなアイディアが巣を作れるようにしておくんだ。アインシュタイン、フォード、ベッケンバウアー、みんなこのレシピを使ったんだ。彼らはみな、ピアニストがピアノの鍵盤を知りつくしているのと同じように、自分の仕事を知りつくしていた。だから何かひっかかりがあれば、すぐにそれに気づけるという自信を持っていたんだ。

今、何を、どうやってすればいいかって? まず興味の持てるプロジェクトを選ぶことだ。ある分量の資料を研究するとか、何かを作ってみるとか、何かの問題の答えを見つけてみるとか。ひと月以内で終わらせられるようなプロジェクトがいい。そして、ちゃんと終わらせられる手段があるようなものにする。少しは頑張らなくちゃならないようなものがいいけれど、ほんとうに少しだけでいい。特に最初はね。もし二つのプロジェクトのどっちを選ぶか迷ったら、面白そうな方を選ぼう。失敗したら、もう一方を始めればいいんだ。これを繰り返す。そうすると次第に、ちょうど内燃機関みたいに、このプロセスが自分で走り出すようになる。一つのプロジェクトが次のプロジェクトを生み出すようになるんだ。(そうなるまでには何年もかかるけれどね。)

学校に受けがよさそうというだけでプロジェクトを選ぶのは良くない。特にそれで制約を受けたり、それが課題のように感じられるならね。友達を巻き込みたかったら声をかけてもいいだろう。でもあまりたくさんでない方がいいし、ただ群れたがるだけの人は避けたほうがいい。友達は士気を保つのにいい (一人だけで始められるベンチャー企業はほとんどない)。でも秘密にやることにも利点はある。秘密のプロジェクトというだけで何かわくわくするものがあるし、失敗したって誰にもばれないんだから、大胆な挑戦ができる。

プロジェクトが君の将来目指すものにあまり関係なさそうだったとしても、心配することはない。目指すものに到達する道っていうのは、君が思うよりずっと大きく曲がりくねるものなんだ。プロジェクトをやることで、道は伸びてゆくんだ。一番大事なのは、わくわくして取り組むことだ。そうすれば経験から学ぶことができるからだ。

人に言えないような動機だからって、それを抑えないようにしよう。欲望の中で最も強いもののひとつは、他人よりうまくやりたいということだ。ハーディはその気持ちで数学を始めたと言ったが、それは別に珍しいことじゃないと思う。それを公に認める人は少ないけれど。他の強い動機としては、知らなくてよいとされていることを知りたいとか、やっちゃいけないとされていることをやりたいという欲望がある。大胆な行動をしたいというのも、これに近い欲望だ。 16歳の生徒が小説を書けるなんて多くの人は思っていない。そういうことに挑戦すれば、どんな結果であっても、プラス点になるはずだ。本当に大失敗したところで、周囲の期待より悪いってことはないわけだからね [8]。

悪いモデルに気をつけよう。特に怠けることを肯定するようなものにね。ぼくは高校生の時に、有名作家がやっているような「実存主義的」短篇小説をいくつか書いたことがある。そういうものっていうのは、読んで面白い小説を書くよりも、たぶん簡単だ。これは危険信号なんだ。そのことを知っているべきだった。実際、ぼくが書いたものはどれも退屈だった。ただ、有名作家みたいに知的で厳粛なものを書くっていうことがすごいことに思えてただけだったんだ。

今はもう十分に経験を積んだから、そういう有名作家が本当は全然たいしたことないってことがわかる。実は有名人のほとんどはそうなんだ。短期的に見ると、ある仕事の質っていうのは有名度とはほとんど関係がない。今思えば、ぼくは何かカッコいいことをしたいなんて焦らないで、ただやりたいことをやってればよかったはずなんだ。それが実は、カッコいい仕事への道なんだ。

多くのプロジェクトで大事な要素は、もうほとんどそれ自体が一つのプロジェクトになるようなものなんだが、良い本を見つけることだ。ほとんど全ての教科書はダメだ[9]。だからたまたま手近にあった本を見て、それがその分野の全てだとは思わないほうがいい。ごくわずかの良い本を積極的に探さないとならない。

大事なことは、外に出てなにかを為すことだ。黙って座って教えられるのを待つんじゃなく、自分から踏み出して学ぶんだ。

入試の試験官に自分の人生を合わせる必要なんてない。自分の好奇心に合わせて人生を作っていけばいい。野心的な大人はみんなそうしてる。それに、君は待つ必要はないんだ。大人になるまで待たなくてもいい。だって、ある年齢になったり、どこかの学校を卒業した時にぱちんと大人になるようなスイッチなんてないんだからね。自分の人生に責任を持つことを決心したその時に、君は大人になるんだ。何歳だってできることだ [10]。

ばかげだ話だと思うかい。君はこう思うかもしれないね。「ぼくは未成年だし、金もないし、親と一緒に住まなくちゃならないし、一日中大人に言われたことをやらなくちゃならないのに!」ってね。でもね、大人になって仕事をしていたって、やっぱり似たような面倒な制限がいろいろあるものさ。でもやる人はちゃんとやり遂げる。子供であることが制限の多いことだって思ってるなら、子供を持ったらどんなことになるか考えてごらん。

大人と高校生の唯一の違いは、大人はものを成し遂げる必要があることを知っていて、高校生はそうでないということだ。多くの人々は、それをだいたい23歳くらいの時に知る。でも、こっそりいまから始めることを、ぼくは君達に勧めたい。さあ、始めよう。そうすれば、君達は史上初めて、高校の時に時間を無駄にしなかったと言える世代になるかもしれない。

原註
[1] ぼくの友人の医者は、これでも医者の仕事が本当はどんなものかを知ることはできないだろうと言っている。「どれだけ時間を費して、ほとんど自分の時間を持てない何年もの訓練を受けて、そしていつだってポケベルで呼び出されることがどんなに煩わしいかなんて、わかるわけないよ。」

[2] 彼が出来る一番の方法は、おそらく独裁者になってNBAを脅して自分をプレイさせることだ。現実的に、それに一番近い立場は労働長官になることだ。

[3] 昼間の仕事というのは、本当の仕事(バンドで演奏したり、相対性理論を発明したり)に時間を費せるように、生活費を稼ぐためにやるような仕事のことだ。

高校を昼間の仕事だと思うことは、生徒の何人かにとってはむしろ良い成績をとるのに役立つかもしれない。授業をゲームだと思えば、内容自体に意味が無くてもがっかりすることはないだろう。

授業がどんなにひどくても、それなりの大学に入るには良い成績は取っとかないとならない。そのこと自体は、やる価値のあることだ。近年では、賢い人々の集団を見つけるのに大学は良い場所だからだ。

[4] 二番目に大きな後悔は、重要でないことを気にしすぎていたことだ。特に、他の人にどう思われているかってことだね。

より正確に言えば、ランダムな人々にどう思われているかを気にするってことだ。大人だって人にどう思われるかを気にするけれど、誰に思われるかって点ではより選別していることが多い。

ぼくはだいたい30人くらい、意見を気にする友人がいる。残りの世界の意見はぼくにとってはどうでもいい。高校の問題は、まわりに居る人間が、自分の判断ではなくて年齢と地域がたまたま一緒だったというだけで決まることだ。

[5] 時間を無駄にする一番の要因は、気を散らすものだ。気を散らすものが無ければ、自分が何もしていないということにすぐ気づいて、落ち着かなくなるはずだ。どれだけ余分なことに気を取られてるかを知るには、こういう実験をしてみるといい。週末にある程度の時間をとって、一人で座ってただ考えるんだ。ノートを持っていてそれにメモを取るのはいい。けれど、他のものは全て絶つ。友達も、テレビも、音楽も、電話も、インスタントメッセンジャーも、メールも、ウェブも、ゲームも、本も、新聞も、雑誌も無しだ。 1時間もすれば、ほとんどの人は何か気を散らすものが欲しくてどうしようもなくなるはずだ。

[6] 私立の進学校が入学審査官をだますためだけのものだって言うつもりはないよ。普通は、より良い教育もしてくれる。でもこういう思考実験をしてみたまえ。私立の進学校が、今と同じ質の教育をしてくれるんだが、そこに行くとごくわずか (.001) の確率で入試に受かりにくくなるとする。そしたらどれだけの親が子供を私立の進学校に行かせようとするだろうね。

もちろん、私立の進学校に行った子供はより多くのことを学んだのだから、より大学の合格者としてふさわしいという議論はできる。でもそれは経験的には誤りだ。一番素晴らしい高校だって、そこで教えてくれることなんて大学で学ぶことに比べたら誤差の範囲だからだ。公立高校を卒業した子供は入学直後には多少の不利はあるかもしれないが、 2年生になればむしろリードするようになる。

(公立高校の生徒の方が賢いって言っているんじゃなくて、どんな大学にも公立高校出身の学生がいるってことを言っている。私立の進学校の方が入試に受かりやすいという前提を認めれば、公立高校出身で試験に受かった生徒の方が平均的に高い能力を持っているということになる)

[7] どうして社会が君にファウルするんだろう。その主な原因は、無関心だ。高校を良くするという外圧が全く無いからだ。航空管制システムは優れたシステムだが、それはそうでなくちゃ飛行機が落ちてしまうからだ。企業は製品を作らないとライバルに客を取られてしまう。でも学校がダメになっても飛行機は落ちないし、競争相手もいない。高校は邪悪なのではなく、ただランダムなんだ。でもランダムであることは、かなり悪いことだ。

[8] それに、もちろんお金という動機もある。高校ではこれはあまり関係無いだろう。人が欲しがるようなものを作れることは少ないからね。でも多くの偉大なものごとというのは、お金を稼ぐために為された。サミュエル・ジョンソンは、「金のため以外にものを書くやつなんて馬鹿だ」と言っている。(多くの人は、彼は誇張してるんだと思いたがるけどね)。

[9] 大学の教科書だってひどいものだ。大学に入ってみれば、教科書の多くは(いくつかの輝ける例外を除いては) その分野の第一人者が書いたものじゃないことがわかるだろう。大学の教科書を書くのはあまり面白い仕事じゃないし、お金のために書かれることが多い。面白くない仕事なのは、出版社が色々注文をつけて来るからで、自分がやってることを理解できない人間に注文をつけられるのは最悪なことだからだ。高校の教科書では状況は もっと悪いらしい。

[10] 教師はいつも「大人のように振る舞いなさい」と君達に言っているかもしれない。でも、本当に君達がそうすることを望んでいるかは怪しいものだ。君達は騒がしくてまとまりが無いかもしれないけれど、大人に比べたらずっと素直だ。君達が本当に大人のように振る舞い出したら、それは例えば大人達を君達の体に移し変えたようなものになるだろう。 FBIエージェントやタクシーの運転手や記者達が、トイレに行くのにいちいち許可を得る必要があって、しかも一度に一人しかいけないなんて聞いてどういう反応をするか想像してごらん。君達が教えられたことなんてひとつも守られないはずだ。もし本当に大人達が高校に入ることになったら、最初にやることはきっと組合を作って校則の改正を教師達と談判することだろうね。
posted by tuto at 19:07| 東京 ☔| Comment(0) | さとし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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