2009年10月17日

あうあうて

オランダのエルバッハに近い北海で、一人の「海底の住人」が捕らえられた。
その男はローマ教会の司教のような姿をしており、
食事を出されても全く口にしようとしなかった。
何も喋らず、深いため息をつくばかりで、三日後に死んでしまったという。


信じようと、信じまいと―

1443年、バルト海で一人の海底の住人が見つかった。
彼は、司教に大変良く似た姿をしており、その地方の司教たちに敬意を示したが、
まったく口をきかなかった。彼が海に戻るとき、胸で十字を切り、それからもぐっていった。
それ以来彼を見たものは誰一人としていないという。

1926年12月5日、マグロ漁船「良栄丸」が遭難。翌年、ワシントン州ビューゼット・サウンド湾口で発見された。船員12人は全滅。
航海日誌には「数十隻の船とすれ違い信号を送ったものの、何の反応もしてくれなかった」と記されていた。しかし日誌で名指し
されていたアメリカの貨物船「ウエスト・アイソン」号のリチャード船長は「1926年12月23日、太平洋上で漂っていた小型漁船に
救助が必要かと問いかけたが、10人程の船員は船窓や甲板に立ってこちらを見るばかりで誰一人として応えなかった」と述べている。


信じようと、信じまいと

日本海のある海域に50mにもなる一本の黒い帯が現れた。
その近くを通った漁船が詳しく調べてみると、数千万にも及ぶ魚の群れだった。
帰港した船長から話を聞いた専門家曰く、「通常、魚は脅威から身を守るために、、
大型の魚のようにカモフラージュします。それだけの群れであったということはそれだけの脅威がいたということです。」

信じようと、信じまいと―

1980年代、アメリカの偵察衛星が太平洋北西部で、白い円形の物体を発見した。
その物体はつねに同じ場所に存在しているのだった。アメリカ軍は、艦船、航空機、
潜水艦で現地に向かったが、目視することもデータを捕捉することも出来なかった。
海面にあるとすれば直径15mほど。現在、グーグルマップでも見ることが出来る。


140 名前:以下、VIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/11(金) 00:47:35.81 ID:WPPgo6LD0
信じようと、信じまいと―

15世紀スペイン。大航海時代を築いた一人として名の残る航海者・商人のディルゲーノは、その卓越した
航海術によってその生涯における「すべての」探検に成功し爵位を与えられたほどの人物だったが、
38歳の時の航海を最後にぷっつりと海に出るのをやめてしまい、すべての地位を捨て隠居してしまった。
その最後の航海で「イルカを一呑みにしてしまうほどの巨大なトカゲ」を見たからだという。


147 名前:以下、VIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/11(金) 00:51:04.02 ID:WPPgo6LD0
信じようと信じまいと―

セントヴィンセント/グレナディーン籍のLPGタンカーが大西洋を航行中、甲板に大きく衝撃音が響いた。
何事かと駆け付けた船員の目に飛び込んできたのは、体長15mを超えるダイオウイカの死骸であった。
腐敗が無い為死後間も無いと思われ、また何箇所か巨大な楔を打ち込んだような傷跡が見受けられた。
船員達は不審に思いつつも死骸をそのままには出来ず、船長の指示の元苦心して海へと投棄した。





306 名前:以下、VIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/11(金) 16:10:18.00 ID:WPPgo6LD0
信じようと信じまいと―

数年前に、ある調査隊が深海に住む生き物を調べるために、網を使い生物を引き揚げた。
彼らは多数の深海生物に興奮していたが、ある生物を見たとき、全員が驚愕したという。
その手のひらにも十分に収まる小さな巻き貝の貝の部分は、金属で出来ていたのである。
貝を金属にでもしなければ種の保存が脅かされるような生物とは一体何者なのだろうか。


310 名前:以下、VIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/11(金) 16:18:41.77 ID:DzRqouV60
>>306
確かこいつだろ。世界で唯一錬金術が使える生物か。浪漫だな
こいつが棲む海域は温度が何百度とあって調べられなくて生態はまったく解明されてないとか





良栄丸事件


これは1927年(昭和2年)に実際に起きた事件である。
●発見されたミイラ船
1927年10月31日、カナダ゙西海岸バンクーバー島。ワシントンのシアトル港への帰路についていたアメリカの貨物船「マーガレット・ダラー」号は、行方不明になっていた日本の小型漁船「良栄丸」を発見した。
ボロボロに朽ち果てた船体、ミイラの転がる甲板、激しい死臭、白骨体、足の無い死体。船室には、頭蓋骨を砕かれた白骨体とミイラがあった。船室奥の部屋には、おびただしい血痕が染み付いていた。船尾の司厨室では、海鳥の白い羽が至るところに散らばっており、コンロの上にあった石油缶の中には、人の腕が入っていた。船内には食物も飲料水も無く、エンジン機関部は全て破損していた。
ところが、船長室から見つかった3冊のノートには、信じられない惨状が書かれていたのだった。そのノートによると、良栄丸の情報は以下の通りだ。

・重量は19tで1本マスト
・船主は和歌山県の藤井三四郎
・船長は三鬼時蔵
・機関長は細井伝次郎
・乗組員は12名
・神奈川県の三崎港を出港したのは1926年12月5日
・約1年間漂流していた

ここで疑問が浮かぶ。発見された死体は9体、記録には12名とある。残りの3名はどうなったのだろうか。


●不幸な漁船

1926年12月5日、神奈川県の三崎港を出港した良栄丸は、千葉県銚子沖にマグロを求めて進んでいた。天候も思わしくなく、エンジンが調子の悪い排気音を立てていたため、翌12月6日に銚子港に寄港した。
しかし、エンジンに故障はなく、銚子の沖合いで大量のマグロを水揚げした。が、暴風に見舞われて航行不能に陥ってしまった。そして12月15日、銚子の東方沖合い1,000マイルほど流された時、紀州船によく似た船が現れたので、信号を送ったり船員が叫んだりしたのに、応答も無く通り過ぎてしまったという。
三鬼船長は漂流を決意、記録には「4ケ月間は食べられる」と書いてあった。12月16日にも「東洋汽船」と書かれた船が近くを通ったが、応答はなかったという。なんとか日本へ戻ろうと努力したが、どうやっても逆に流されていった。記録にはこう書かれている。
「どう工夫しても西北へ船は走らず絶望。ただ汽船を待つばかり。反対にアメリカへ漂着することに決定。帆に風を七三にうけて北東に進む…。しかし、漁船で米国にたどりつこうとするは、コロンブスのアメリカ大陸発見より困難なりと心得るべし」


●恐怖の記録

ここからは説明は要らないだろう。記録文のみで充分に迫力が伝わってくる。


『12月27日。カツオ10本つる』


『1月27日。外国船を発見。応答なし。雨が降るとオケに雨水をため、これを飲料水とした』


『2月17日。いよいよ食料少なし』」


『3月6日。魚一匹もとれず。食料はひとつのこらず底をついた。恐ろしい飢えと死神がじょじょにやってきた』


『3月7日。最初の犠牲者がでた。機関長・細井伝次郎は、「ひとめ見たい…日本の土を一足ふみたい」とうめきながら死んでいった。全員で水葬にする』


『3月9日。サメの大きなやつが一本つれたが、直江常次は食べる気力もなく、やせおとろえて死亡。水葬に処す』


『3月15日。それまで航海日誌をつけていた井沢捨次が病死。かわって松本源之助が筆をとる。井沢の遺体を水葬にするのに、やっとのありさま。全員、顔は青白くヤマアラシのごとくヒゲがのび、ふらふらと亡霊そっくりの歩きざまは悲し』


『3月27日。寺田初造と横田良之助のふたりは、突然うわごとを発し、「おーい富士山だ。アメリカにつきやがった。ああ、にじが見える…。」などと狂気を発して、左舷の板にがりがりと歯をくいこませて悶死する。いよいよ地獄の底も近い』


『3月29日。メバチ一匹を吉田藤吉がつりあげたるを見て、三谷寅吉は突然として逆上し、オノを振りあげるや、吉田藤吉の頭をめった打ちにする。その恐ろしき光景にも、みな立ち上がる気力もなく、しばしぼう然。のこる者は野菜の不足から、壊血病となりて歯という歯から血液したたるは、みな妖怪変化のすさまじき様相となる。ああ、仏様よ』


『4月4日。三鬼船長は甲板上を低く飛びかすめる大鳥を、ヘビのごとき速さで手づかみにとらえる。全員、人食いアリのごとくむらがり、羽をむしりとって、生きたままの大鳥をむさぼる。血がしたたる生肉をくらうは、これほどの美味なるものはなしと心得たい。これもみな、餓鬼畜生となせる業か』


『4月6日。辻門良治、血へどを吐きて死亡』


『4月14日。沢山勘十郎、船室にて不意に狂暴と化して発狂し死骸を切り刻む姿は地獄か。人肉食べる気力あれば、まだ救いあり』


『4月19日。富山和男、沢村勘十郎の二名、料理室にて人肉を争う。地獄の鬼と化すも、ただ、ただ生きて日本に帰りたき一心のみなり。同夜、二名とも血だるまにて、ころげまわり死亡』


『5月6日。三鬼船長、ついに一歩も動けず。乗組員十二名のうち残るは船長と日記記録係の私のみ。ふたりとも重いカッケ病で小便、大便にも動けず、そのままたれ流すはしかたなし』


『5月11日。曇り。北西の風やや強し。南に西に、船はただ風のままに流れる。山影も見えず、陸地も見えず。船影はなし。あまいサトウ粒ひとつなめて死にたし。友の死骸は肉がどろどろに腐り、溶けて流れた血肉の死臭のみがあり。白骨のぞきて、この世の終わりとするや…』


日記はここで切れている。だが三鬼船長は、杉板に鉛筆で、以下のような家族宛ての遺書を残していた。

『とうさんのいうことを、ヨクヨク聞きなされ。もし、大きくなっても、ケッシテリョウシニナッテハナラヌ・・・・。私は、シアワセノワルイコトデス・・・ふたりの子どもたのみます。カナラズカナラズ、リョウシニダケハサセヌヨウニ、タノミマス。いつまで書いてもおなじこと・・・・でも私の好きなのは、ソウメンとモチガシでしたが・・・・帰レナクナッテ、モウシワケナイ・・・ユルシテクダサイ・・・・』


●奇妙な事実

しかし、記録を調べるうちに、奇怪な事実が浮かびあがった。数十回に渡って他の船にであっていながら、救助に応答する船は一隻としてなかったことだ。そして、良栄丸は太平洋横断の途中、たった一つの島さえも発見できなかったのである。しかし、アメリカの貨物船「ウエスト・アイソン」号のリチャード・ヒーリィ船長は、次のように述べている。

「1926年12月23日、シアトルから約1,000キロの太平洋上で波間に漂う木造船を発見したが、救助信号を送っても返事が無いので近づきました。しかし、良栄丸の船窓や甲板に立ってこっちを見ていた10人ほどの船員は、誰一人として応えず、馬鹿らしくなって引き上げたのです」

だが良栄丸の記録にこのことは書かれていない。一体、彼らにはなにが起こっていたというのだろうか。


●不気味な後日談

実は良栄丸事件は戦後にも起こっている。
昭和35年1月12日、高知県土佐清水市の「第2良栄丸」は沼津を出航し、翌1月21日夜に遭難した。この時の乗組員は12名で、そのうち3名が行方不明となり、残り9名は自力で小笠原諸島の無人島・姉島に泳ぎ着いた。9名はその90時間後に巡視船むろとに救助されている。

posted by tuto at 15:39| 東京 晴れ| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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